本当の個性とは
発言を聞いても行動を見ていても「この人、なんかイヤだなぁ」…いけないと思いながらもそう感じてしまう人がどこかにいませんか?
それは家庭内か職場内かテレビ出演者か街中で出会った誰かなのか、どこで遭遇するのかはそれぞれでしょう。ただ言えるのは、時期的なものである場合が多いのです。
同じ人物を一生不快に感じ続けるということは意外とないものです。「この世の中の誰もかもがクソみたいな人ばかり」そう感じる時期もあれば、砂漠やジャングルで長い期間独り寂しく遭難していて、誰かもわからない人間を見かけただけでありがたさに涙が溢れることだってあります。
他人とは、自分の反映でしかないのです。自己をどう認識しているのかによって自分以外の人がどうにでも映るのです。その状況が生涯変化しない人は原則いないという意味です。
わかりやすい例をあげると、自分が金銭を得るために意図していなくて無自覚だとしても自然環境の汚染や破壊に貢献しているのが一般的な人間です。その観点からすると経済活動をしている人が皆クズに思えてきます。そして他ならぬ自分自身も生業を立てるために経済社会に組み込まれて日頃ゴミや排泄物を出しているのが普通です。
かかわる人物を一人残らずあげつらって悪口を言うのが趣味みたいな人がいるかと思えば、全ての出会う人から素晴らしさを引き出して長所を指摘して「世の中には感謝すべき人しか存在しない」そんな人間観の人だって実在します。
その点ではどれが良いとか何が悪いとかはまるでないと私は思います。どんな生き方が楽しいのか、学びが多い人生なのか?というテーマなのだと思います。
何でも肯定的に解釈していては問題改善はしようがありません。何でもOKの人にとってはそもそも問題などは存在していないのでしょうから!笑 逆に何にでもケチばかりつけていてはおそらく楽しい人生にはならないでしょう。何につけてもバランス感覚ですよね。極端は基本避けるべきだと考えます。極端な生き方とは、実は本人も苦しいし周りも大変な目に遭うでしょう。極端を続けると結果的に寂しい人生となりやすいということです。
一時的な自分の価値観や感情で人物や物事を判断しないことです。後日「どうしてあの時に自分はあんな事をしてしまったのだろう」と思える事態を積極的には引き起こさないことに繋がります。かといって私は「だから何でもあやふやにしておけ」と言いたいわけではありません。
「あの時の自分はどうしてあんな事すらできなかったのだろう」という後悔を抱えて生きている人も実は多いのです。これが自己否定となって周りの人間や物事を醜く映し出すようになってしまうのですから。
究極的に自己中心的な人とは穏やかで大らかで、細かい事にこだわらない人だと私は考えます。自分の人生哲学のようなものがそれなりにあればこそ周りに振り回されることもなく常に穏やかでいられるのです。他人の介在で人生が左右されにくいということです。そして穏やかで大らかで特異な主張もしないならば誰からも好意を抱かれやすいので他人から促される事案は多くなり、本人が望むならば人とのご縁で人生が急展開もするわけです。
「特別なアピールをしているわけでもないのに上手に世渡りしているなぁ」そんな人、誰か思い浮かびませんか? そんな方は棘がないだけで充分に個性的な人だと呼べるのです。
外見を筆頭に極端であることが「個性的」とされる風潮がありますが、個性を確立できている人物は実のところ地味で寛大だったりします。バランス感覚を充分に養っているからです。
目立つ人は、むしろ無個性で自信が何もなく「何かの模倣をしているだけ」の場合が多いと私は感じます。
個性とは、一見したところの印象とは別の非物質部分に表れるものなのです。外見に惑わされてしまってはいけません。一目で個性的だと思わせる人は、変わっていたとしても(それも個性には違いないでしょうが)人間的にはそんなに個性的ではなかったりもするのです!笑