お知らせ

2018年07月09日

勝敗をこえた価値観

大雨によって西日本を中心に死者が出ていることが報道されています。ニュースでも常に注意喚起を呼び掛けていたようでした。亡くなった人をはじめ大勢の生活に支障が出ている現状に全く無関心でいられる人は少ないでしょう。

 

こういった事態が起こると常に強く感じることが私にはあります。

 

自分が大雨を降らせたり崖を崩したりしている自覚がある人は原則としていないでしょう。つまり、自分が加害者となる可能性がないと判断する事柄に対しては「大変だ・気の毒だ」とか、堂々と言えるのです。

 

飛行機が墜落して死者が出ても、飛行機を造ったり売ったり操縦したりで稼いでいる人は多くはないので、全般的には事故を追及しやすいのです。

 

ところが自動車による死となるとどうでしょう。自動車産業に携わる人の数は膨大です。それが直接的な稼ぎの種ではないにしても、店に陳列されているどの商品だって自動車で運ばれているでしょうし、日常的に自動車を活用している人は田舎になるほど圧倒的多数です。連日どれだけの死者を輩出して健康被害を及ぼしていようが、それを廃絶されたら困る人たちが大勢いれば悲しいかなそれは継続されてしまうのです。

 

自分も殺人マシンを活用しておきながら、他人には「危ないからそれはダメだ」と言えるはずがありません。たまたま自動車を例にとりましたが、世の中のあらゆる事柄がこのような構図から抜け出せないでいるのです。

 

原発で潤っている人に権力者が含まれているのだったら廃絶するわけがありません…仮に何億人死のうが自分の懐が潤うことを優先するような人が権力を握ることに興味があるのですからね。

地球の現文明から戦争が無くならないのも当然のことです。見方によっては大量消費と大量生産を確実に促進するおいしい商売なのですから(笑)。

 

平和や愛を好む人は金銭や権力には無関心な傾向があります。きっと組織にも属したがらないでしょう。一般の企業に限らず、そこでの構造の上層に上り詰める人は決まって「敵・味方」「勝った負けた」等、今の地球文明独自の価値観をちゃんと有している人です。

 

地球上のどんな組織や団体に期待しても、残念ながら「この文明では争いや搾取が基本である」ことを思い知らされるだけなのです。

 

しかし本来、人間としての個人の価値観は誰からも自由なのです。「不本意でも多数派に巻き込まれなくては生きて行けない」という錯覚から抜け出しましょう。

 

現状では生活習慣をある程度社会に擦り合わせて行く必要もあるでしょうが、かといって自分の根本的価値観を捻じ曲げる必要はないのです。

 

生活を成り立たせながらも心を歪ませない、これはそんなに難しいことではありません。それが多数派になった時、自ずと人間社会は大きく変わるのです。

 

結局、鍵は個人にあるのです。