傷つく生き方
ひと頃よりは減りましたが「傷つけてしまった」「傷つけられた」などのセリフがドラマや映画や小説によく出てきます。それに合わせて日常でも「傷つけ…」の言葉を使っている人も多かったように思います。
それが殺傷事件などを指している場合はニュース報道くらいでしょうから、心や気持ちのことを言っているわけですが、はたして「心が傷つく」とは何を指しているのでしょう。いつもの私の言い方ですと「非物質としての人間が傷ついたり傷つけられたりする」ことを意味するわけです(笑)。
私は決して茶化しているわけではありません。「経歴や名誉に傷がついた」といった種の話ならば、例えば「高額な所有車に傷がついた」と同等で物質的な傷にも近いものがあります(それでも憤慨される方は大勢いらっしゃいます)が、「物質肉体ではない人間の何かが傷つけられる」ということを主張したり屈辱と捉えたり罪悪と考える感覚が誰にでもあるということは、いかに非物質としての人間存在を重視しているのか!ということでもあります。
おそらく現代人は「人間とは何なのか」についての認識の個人的差異があまりにも大きいため、自分がちょっと影口をたたかれている事実を知っただけで大きく落ち込んだり怒り出す人から、不可抗力で全てを失っておきながら(実際殺されてしまう人も多い、それが地球文明の特色です…)そんなそぶりは微塵も見せないで短期間で立ち直る人まで、実に様々な許容範囲があります。人間の遺体を目撃しただけでショック状態に陥ってしまう人から、連日遺体の処理をするのが仕事の方も実在するわけです。
それが良いか悪いかは別にして、物質肉体人間として以上に、非物質としての傷つきかたは慣れや鍛錬でだいぶ変わってくるのは事実です。
「自分は繊細で傷つきやすいから」と自らを型に嵌めて「世間や周りの人がいかに自分を傷つけるのか」と感じて苦しんで生き続けるのも、「傷付いたと感じている人たちに手を差し伸べるのに忙しくて、自分が感傷に浸っている暇などない」という人生を送るのも、個々人の自由なのです。