人の評価
前回、「人に評価されたいのも自由」と触れました。そこで今回は「人の評価」そのものについての話題です。
あまり深く考えないで日常的に「高い評価を得ている」と聞くと、よい印象を持つ人が多いようです。なぜそのようになるのでしょう?
誰もが、経済価値最優先の社会に染まってしまうと人間のことも経済的価値でしか見なくなり、自分自身も経済的価値を高めることを目標として生きるからです。だから年収○○円とかが人間の価値だと本気で思っている人もいるのです。
ところがそこには大きな矛盾があります。経営側からしたら低コストで生産性の高い従業員(ロボット)が高評価となるに決まっているのですから、高い評価を得たければ安月給で馬車馬の如く働けばよいだけになってしまいます。それは自分自身を安売りして消耗品のように疲弊するだけなの行為…なのにもかかわらずです。
逆に、ある人が生み出す何かが万人から高い評価を得たのなら、それを作り出した人が低評価であり続けることはないでしょう。しかし企業からしてみたら仮に生産性が周りの100倍の従業員がいたとしても、コストも100倍レベルでは当然低評価!笑
結論は、自分の経済的価値を高める方法は直接的に人の評価を求めないことなのです。そんな事にも気付かないというのは、幼少期から刷り込まれた競って評価される観念が邪魔をしているだけなのです。
多くの親にとって子供が有名大学や有名企業に所属することは気持ちの良いことですからたくさん投資します。(それももはや投機となる時代ですが…笑)
塾や学校はたくさん儲けようと、有名校に合格する生徒を一人でも多く輩出することに躍起です。
ひきこもりとは、子供たち本人が金儲けと見栄の道具にされているくだらなさに気付いて、ささやかな反逆が始まっている証なのです。カネ最優先のイジョウな大人社会が変わらなければ、次世代は育ちようがありませんね。
セイジョウ石井