「考える」ということ
「考える」という言葉を使わない人はいないと思います。
ところが近頃マスメディアや世間一般で使われている「考える」という言葉のニュアンスは「困っている」「即答できない」「決めかねる」「先延ばしにする」というような場合に「考える時間を」などという具合で使われていることが多いように感じられます。
しかし私が思うのは、そんな場合に使う言葉は「想定外で答える準備ができていない」が妥当です。大惨事が起きると組織の責任者が決まって堂々と口にする「想定外の事態で…」ってヤツです(笑)。裏を返すと、その「準備」とは何でしょう?
ここでの答えは「暗記しておくこと」です。
子供の頃から受験や資格取得などで暗記ばかり求められて生きてきた人が大抵は大きな組織に所属します。専門知識の他にも「こういう事態の場合はこのように対処すればよい」とマニュアル化されているものを記憶し、時にはそのマニュアルを調べたりして、マニュアル通りに実行できる人が重用される職場が普通です。これがグローバルな人間ロボット化計画の成果です。一昔前まで、ロボットとは人件費に比べると機能も限られていてやたら大きくて重くて高価なものでしたからね。
立場的に説明責任を果たすはずの者が「想定外の…」あるいは堂々と嘘を言ったり黙していたりする感覚は「マニュアル化されていない事が起きたんだから私こそ被害者だ!」といったところでしょう。ロボットとして育成されて生きてきたのに急に人間らしさを求められても、何を求められているのか?すらわからないのです。
「人類だけが知的生命体」という常識は、セイジョウ石井に言わせると二つの意味でイジョウなのです。一つは皆さんも予想がつく「人間以外にも知的生命体はたくさん存在する」ということ。
そしてもう一つ肝心なのは…「人類の中には知的生命体でない存在もいて、概してそんなタイプが人間社会を操る側にいる」ということなのです。
データ保存は、考えることとは別です。学校で成績下位を独占していたような悪ガキの考えるイタズラは秀逸で、被害者に失礼でも笑ってしまいませんでしたか?
いつもボーっとしていて周りとズレまくっていてダメダメ印象だった同級生が、後年になって特殊な仕事で成功していたりしませんか?
「考える」という行為は、「予算や時間など物理的状況からしたら不可能に思えるけれど、何をどうしたらそれが可能になるのか?」といった工夫や奇想天外な発想です。ですから、「考える」とは「瞑想とひらめき」と言い換えてもよいでしょう。
とにかく知識の詰め込みだけという教育は、心の通わないマシーンのような人間を量産するのです。それこそが目的で行われてきた教育ですが、人間の定義が変わりつつある今、教育をはじめ何もかもが転換することとなりそうですね。