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気にしない方法
2017年10月08日

気にしない方法

前回の記事で気にしないことについて書きました。きっと「気にならないのならどんなに楽なことか!気になってしまうのだから仕方がない、だからこそ困っているのに…」と心で呟いている皆さんの声が聴こえたため(笑)続編です。

気になって気になってしょうがない、夜もろくに眠れない… 特別に神経質な人ではなくても、多くの人に経験のあることでしょう。

どうしても気になることがある場合の私の対処法は、どんなに壮大で時間がかかりそうな事でもすぐに、あるいはできるだけ早くそのことに着手してしまいます。気にしていながら手をつけずにいた場合は、結果がどうであっても後味が悪いからです。

「気になったから着手したまではよいが、まだ時期が早すぎた」という場合、それが確認できただけでも「その時期が来るまでの間は気にかけていても仕方がない」と納得できます。

気にしていながら行動に移せないという状態は「今それに着手しても自分の思惑通りの結果が出る確率が低い」と自分で判断しているケースが多いのです。それでしたら確率を上げる行動をすぐに開始すればよいわけで、気になる事の焦点をそちらに移動させればよいのです。気にかけている事柄をうまく運ばせるためにできる何かを実行するよう、意識を向け直すのです。

ですから、ひたすら気にかけているだけで何の行動も起こさない人とは、はっきり言って子供のように「努力や工夫はしなくても結果だけが欲しい」人なのであり、同時に大人らしく「この世の中にはそんなうまい話はない」とも思っている人であるということです。

結果を次々と出す人は、ここの認識や自覚がはっきりしている人です。

現実を変えるために取れる行動とは、ほとんどが小さな事ですがいつでも誰にでもいくらでもあります。その中身は人や時や場所によりますから、まさに様々とならざるを得ないためひと括りでは表現できないのですが、このことを個別に伝えることができた相手が一定期間で現実生活を変貌させて行く姿を、私はこれまでたくさん見てきました。

「気にかけたり悩んだりしている時間やエネルギーがもったいない」そう感じるようになったのなら、しめたものです。

逆に捉えますと、気にかけて悩んでいられること自体がまだまだ切迫していない余裕のある状態ということなのであり、常に瞬時に決断して行動しなければならない過酷な状況に比べたら、ある意味贅沢なことなのですね。

 

気にしないとは
2017年10月07日

気にしないとは

例えば、年齢や立場が自分より下の者が自分に対してきちんと挨拶してこなかったとします。

その相手がいつでもどこでもそんな調子ならば、上司なりお客様なりに気に入られることはないでしょうから、どこかで強く指摘されて気付くなどで改善しないかぎり、賃金を得て暮らすような人生はかなり難しいでしょう。そのような態度が些細な事であると思われるほどに卓越した特技や人間味などがあって、そんな調子で暮らしていても周りが目をつぶっているケースもごく稀にはありますが(笑)。

問題は、たまたまその時だけ自分への配慮が欠けているように映った場合、言葉や態度には表さないとしても「なんだ、こいつは挨拶もろくにできないのか!」などと自分が強く感じるかどうかです。

特定の相手が毎回必ずそうなのだとしたら、思いやりからも気になって本人なり周りの関係者なりに指摘したくもなるでしょう。しかし、たまたまそんな事があっただけなのだとしたら、それは偶然考え事をしていたタイミングにすれ違っただけなのかもしれません。それは挨拶に限らず、誰だって人間のする事には「見逃し・勘違い・うっかり」などということが付きものですから。

しかし、些細なきっかけが一度あっただけで「あの人、なんか好きじゃない」「アイツは失礼だ、けしからん!」などと決め込んでしまう人も少なくありません。そんな感情が湧く理由を少し考察してみましょう。

自分が本当はしたくない(必要だとか重要だとは思えない)、つまり腑に落ちていない何かを組織や誰かの都合で強要されて習得した場合、習得したかに見えたその後も実は身についてはいなくて、その人は常に不自然に意識してそのように振舞う努力をしているだけなのです。

それが心から納得できた何かなら、習得コストを惜しむこともなく進んで身につけ、短期間で新習慣にできます。ところがいつまでも「やらされ感」でしている事ですと、ちょっとした何かでも「不本意でも自分だってこのように振舞っているのに、アンタはそれをさぼるのか!」といった厳しい見方をしてしまいがちなのです。

言い方を変えれば、周りの期待に応えようと自分を偽って生きている要素が大きい人ほど他人に厳しく辛く当たる傾向があるということです。反対に他人に寛容な人とは、他者の意図や期待に応えようと自分を無理強いしていない、自然体で生きている人だとも言えます。しかし現代社会の中を後者のように生きることも、それはそれで多くの厳しさに直面することでしょう。

ですから、私の伝えたいことは「不本意な事ならば、やらないでいましょう」ではありません!

変化を起こすために新しい何かを習得するのならば、何事も納得して腑に落としてから「これが私の本意だ」という気持ちで取り組むことが大切だということです。そしてここでの留意点は「納得と完璧とは違う」ということです。

肉体を持つ人間に完璧はありません。すなわち完璧主義者とは皮肉にも一生自分で何事へも納得できないまま、他人へも不寛容に過ごす人生を意味します。

子供の頃の私には解らなかったのですが、今では「気にしない」「これでいいのだ」等のアニメの有名セリフは、本当に人生を楽しく豊かにする名言だと思えるのです。

感動のしくみ
2017年09月20日

感動のしくみ

私が脳幹出血で視聴覚・味覚・触覚・嗅覚をはじめとする感覚や、歩行はおろか起き上がりや飲み込み等の基本的な肉体機能を一旦は完全に失ってから、早くも一年以上が経過しました。

「死亡か植物状態のままか…」と一度は憶測されていたようですから(他人事のように!笑)よくもここまで持ち直したものです。おおよそどの機能も徐々に取り戻してきていますが、どれひとつ取っても元通りのレベルというわけには行きません。それでもやはり優先順位を決めて、諦めずに機能回復訓練に勤しむ日々です。

昏睡状態から意識がはっきりしてきて改めて想ったことは、他人に迷惑をかけて愚行を重ねながらもなんだかんだ自分はこれまで生かされてきたのだ…ということでした。そしてこれからも確実に異なる境遇で生きる…ということを想定して「読み・書き(入力)・話し・これらに関してだけはスローでもよいから何が何でも肉体機能を取り戻そう!」と決意しました。

昨年の今頃は、まだほとんど何も認識できないメチャクチャの視界で文庫本を眼前10センチ位まで近付けて読んでいたのですが、指の感覚もほぼないため、ページをめくるのも至難の業でした。発声で舌と口を動かす辛い訓練も楽しみになるほど連日積極的に取り組み、歩くための訓練の何倍もの時間をそれらに費やしたので、リハビリ病院に入院中のひと月はあっと言う間でした。

「やっと歩けるようになったかどうか?この状況で退院するのはあまりにも危険。あと3ヶ月は入院すべき」との医療常識を医師は私に語りましたが、私は周りの様子を観ていて「頭脳訓練に限ってなら、ここにそんなに長居していたのでは自分の目指すレベルには決して達しない」と判断して強行的に退院(笑)。

原則そこからは毎日、痛くてしびれる身体に鞭打って1~2時間は散歩を中心とした訓練、7~8時間は書物やPCに向かっていました。その甲斐あって、今では長時間読書も話すことも人並みにできます。歩きも一見は普通の人のように重心移動がスムーズになりました。

「歩行中に向こうから近寄ってくる人や車の数が早目に認識できるだけで、こんなに嬉しいものなのか!」ここ一年は遠くになるほど常に錯乱状態だった視界が最近急激に明瞭になってきて、日課の散歩が感動の連続…という私の近況です。人間のあらゆる機能は元々本当に凄いのです。乗物やコンピューターなどの工業製品について熱く語る前に、人間という存在について、誰もがもっと意識を注ぐことが大切だと思います。当たり前の事には何も感じなくなってしまうのが人の常なのです。

何事も失ってから気付く、というのが現代人の定番です。大抵が元通りにはなりませんが、元通りにはできないことに失った意義がある場合も多いのです。私は一度にあまりにも多くのものを失ったため、取り戻すと言うよりも全てを作り直すのに近い感覚です。つまり今は、何から何までがまるで創作の悦びであり、他人からしたら些細な日常が、私にとっては感動の連続です。

もしも今、あなたが大きな悲しみや落胆に遭っているのなら、それは大きな喜びや達成が待っていることを意味します。この世界で感動を得るためには、そのような条件が材料としてどうしても必要なのです。それが物質次元ゲームの妙なのです。

タイプ別、人への接し方
2017年09月07日

タイプ別、人への接し方

相手の出方を窺ってから、その相手への態度を決める人が一定数います。いや、現代のほとんどの人がそうなのかもしれません。しかも、どんな相手に対してどんな態度に出るのかがタイプによって異なるため、それを見た自分がおもしろがるのか不快に感じるのか、自分の視点によって随分と生活の気分が変わってくるのです。

例えば頻繁に同じ店に通っていると、あらゆる対人哲学を有している店員(本人にとっては哲学などというものではなく、自覚のない単なる習慣や無関心の場合もあります)が自分に接客してくるわけですから私はついつい観察して楽しんでしまいます。そこで自分が「接客のあるべき論」を強く持っていると、店に最も嫌われるクレーマーとして自分が扱われてしまう可能性があるため(笑)それを楽しめないのならば人間観察などしない方がよいでしょう。

当たり障りのない無難な客として自分が店に出入りを続けていると、店員によって主に4種類のタイプがあるように私には捉えられます。それぞれをA・B・C・Dとしてみましょう。

A:よく来てくれる常連さんということだけで好意を持って接してくるタイプ。客が何を買う、買わない、好みがどうかなどとは無関係に、顔を見る頻度が高いほど好感を持って便宜を図ってくれるようになったりします。もちろん人柄やフィーリングが合うのか合わないのかで親しくなる度合いにも差が出てくるのは仕方ないでしょうが、基本的には会う毎に徐々に親しみが湧いてくるタイプ。最も多いように思います。

B:口には出さないまでも「また来たか…」という感じで特別な対応などは一切せず、むしろクレーマーにはならないおとなしい客だと判断すると、初回ではありえないような雑な対応をすることもあるタイプ。普段は無愛想な人が仕事の義務感から表情や態度を繕っている場合、こうなりやすいです。気遣いに欠けた態度は気を許した証拠(笑)なのかもしれません。

C:落とすお金の額で態度を豹変させるタイプ。常に高額な支払いを請求される業種では逆に少ないタイプですが、平均客単価の何倍何十倍の購入をするお客を厚遇して、常にケチっているお客を軽視するタイプ。企業(商売)の運営目的がまずは利潤の追求なのですから、当たり前と言えば当たり前。良くも悪くも、経済社会ルールに則っているプロ精神だとも言えます。

D:相手や周りの状況がどうであれ、常に言動が一定で誰に対する態度にも一貫性のあるタイプ。資本主義経済では最も少ないタイプでしょう。その堂々とした生き方が特殊分野で功を奏す場合もありますが、一般社会には特に若い時期の適応が難しくなるため、無理にでも歪めて順応させるケースも多いかと思われます。

これらはあくまでも私の経験上から捉える、ざっくりとしたタイプ分けです。どこにも当てはまらない人や複数のタイプがかぶっている人だって当然います。あなたの仕事が接客やサービス業でなくても、学生や主婦でも、なるほど!と思うところがありませんでしたか?

仕事でも恋愛でも家族関係でも、自分や相手が上述の中でもどのタイプなのか、どのブレンドなのかを把握しておくと、なにかと便利だと思います。少なくともこれらを押さえておくだけで、自分自身が落ち込んだり相手に腹を立てるような機会が減ってくる効能は確実にあります。

ただし、皆さんに誤解しないでいただきたいのは、仮に今の自分がどのタイプだったとしても、それらの性格の多くはこれまでの家庭や学校環境、社会経験の産物なのであって、「性格なのだから変えられない」というものではないということです。

相手を変えようとする試みは、それが何であれ、ほぼ失敗に終わります。しかし自分の特性をよく理解して自覚が芽生えたのなら、自分で自分を変えることは何歳からでも十分に可能です。私はその自覚を導くためのお客様自身の理解をサポートできるよう、納得度の高い説明を提供することを仕事としています。

 

規格外
2017年08月31日

規格外

今ではどうなのか知りませんが、私の小学生時代には負けず嫌いな子供がたくさんいました。では、どうして負けると悔しいと感じるようになるのでしょう。

よく思い返してみるとクラスでも一人っ子は珍しいほうでした。兄弟姉妹がいれば「○○ばっかりズルイ~」みたいな感情が元で言い合いになったりと、物心つく頃から自分と誰かとを比較する機会が日常に溢れているのが一般的だったからでしょう。親や先生から褒められたり認められるときも、決まって何らかの外部基準や他人との比較で「同じようにできている・落ちこぼれてはいない」ことが理由である場合がほとんどです。

他人との比較が意味を成さないような独創性を肯定して子を育む親や教師などは原則いなかったわけです。その子の適性や特異な才能を誰かに見出してもらえたのなら、かなりラッキーでしょう。英才教育という言葉は前からありましたが、残念ながら親の都合で子供をより強くコントロールするパターンが多かったように思います。

結果として、スペックにこそ差があっても規格製品のような人間が量産され、まるで生産ラインから出荷されるがごとくほとんどの学生が卒業すれば企業や役所に就職するのが当然でした。それが軍隊でなくなっただけでも進歩なのでしょうが、労働生活を長年続けた末にその苦しさや理不尽さから病む人々が多い中、病んでしまう前に勇気を出して声を上げたり人生進路を変更する人たちだってあちこちにいます。

でもこれら人生の選択は、実のところ「他人より飛び抜けて優秀(個性的)でありたい」というような欲求に基づいているわけではなく、むしろ反対の「皆と同じカテゴリに収まりたい、規格外の扱いを受けたくない」という強い無個性の欲求からきていると私には感じられるのです。

人によっては幼児の頃から深く気にも留めずに口にしている言葉「ズルイ」とは「それじゃ悪平等にならない・例外が認められている」というようなニュアンスなのかもしれません。どんなに馬鹿らしくても、くだらなくても、不条理でも、辛くても、そのことに全く興味がなかった場合でも、大勢の皆と同じであることを最優先する人間の生態は、未だに私にとっての大きな謎です。(笑)

しかし、そうではない人たちが増えてきています。他の多くの人がどうであれ、独自の感性や能力や考え方で発言をしたり行動したりする人、大きな組織への所属欲求のない人たちです。同時に物的所有欲求も淡い傾向にありますが、個人や少数派となればもちろん何事も責任は自分自身が負わなくてはならないわけですから、組織ではありがちな看板依存や責任転嫁の発想を持たない人物である可能性が高いのです。

そんな人たちには、必ずと言ってよいほど「ひきこもり」期間があります。既存のレールに乗っかっていては進めない人生を歩むのだから、物質的なこと以外にも準備が要るのは当然のことです。そのような人たちの存在比率が上がることに伴って、人間社会も徐々に変革して行くのです。

常に情報操作されているからには表面化することも少ないでしょうが、これは既にかなり進行している現象だと私は捉えています。

毎日が初体験
2017年08月21日

毎日が初体験

普段の生活の中で「人生初の○○!」なんて言葉を聞くと、よほど特別な事でもあったのかと思ってしまうものです。「でもそれは違う」と私は思います。見逃していて気付けないだけで、誰にとっても毎日が人生初の物事で溢れ返っているのです。

仮にあなたという人間の容器(肉体)の中身(霊魂)が入れ替わったとしたら「毎日が同じ事の繰り返しでウンザリだ…」と思って気にも留めていなかった事柄が「なんて変化の可能性に富んでいて刺激的なんだ!」と感じることでしょう。

「新鮮」とは「慣れ・飽き」があるからこそ感じられるものだと多くの人が考えがちですが、慣れや飽きとは、自らが改善や発見を放棄することから芽生える現象なのです。他人からは全く同じことの繰り返しに見えても、本人は毎回とても新鮮な気づきを得ているのかもしれないのです。

そんな中でも象徴的な変化を迎える時というものが確かにあって、その部分だけを切り取って大きな変化が生まれたように認識してしまうのが人の常なのです。もちろん好奇心も向上心もなく惰性で暮らしているだけの人には、そんな節目が訪れようもありません。許されているのならそのようにして生きるのも個人の自由ですから、それをとやかく言うのも大きなお世話でしょう。ただ、日々を新鮮な気持ちで送り、定期的に達成感を伴うような変化を人生で味わいたければ、今している事を常に楽しめるような創意工夫を心がければよいのです。

息子が誕生した同日に倒れ、後日に意識が戻った初期の頃に私が思ったこと、それは「脳幹損傷までしても死ねなかったのか… 以後もしばらくこの肉体で生きるとするならば、全身が痛くてしびれて尿意便意も全く感じず、眼もほとんど見えず、まともに喋ることも起き上がって立つこともできないこの身体を、息子が歩く頃までには普通に話したり歩いたりできるところまでは機能回復させよう!」と決めました。

何とか歩けるようになってからは、室内での単独リハビリとは別に、糞尿漏らしリスクを考慮しながら独り毎日1~2時間はノソノソ歩き続けてきました。そして倒れて約一年後の今日、ついに息子と二人きりでの公園散歩が実現したのです。

ここまでには「パンツを汚さずに帰ってこれた。一度も倒れずに歩けた。片足で5秒も立っていられた。階段を少し昇れた。少し降りれた。転ばずに振り向くことができた」…等々の些細な達成の喜びがずっと積み重なっていたわけで、それらは見ている人には判らないことなのです。自分が崩れたり倒れたりのリスクが一定以下になったから、今日初めて子連れ外出にトライしたというだけのことです。

この経験から私が皆さんに伝えられることは「どんなに些細な事でも大切に積み重ねて行けば、達成の喜びはずっと続く」ということ。そこには他人の視線や思惑など、全く関係がありません。

 

醜さの理由
2017年08月18日

醜さの理由

私は人間の欲求というものについて10歳頃から何かと不思議に感じ、自分のできる範囲で色々と検証してきました。大人になって皆さんが知る有名な話で「まずは生理的欲求を充たしてから…」ということは、おおよそ子供にでも体感からわかることです。

どんなに物事に夢中になったとはいえ「丸三日何も食べていないことに気付いた」とか「便意を催したが50時間は我慢できた」とか「溜め込んだ宿題を済ませるまで100時間以上睡眠をとらなかった」などという子供はいないわけです。幸い私は極寒や空腹に耐えなければならない家庭環境ではなかったため、贅沢な話それがどんなものかを知りたくなったのです。

そこで自分の生理的欲求の実験調査です。どこまで眠らないでいられるかを試そうとがんばって起きていても、いつの間にか眠っていて気付けば朝!何度チャレンジしてもこれは同じでした。

排泄も、トイレで用をたしてから「そういえば!」と思い出すくらい当たり前に身体が動いてしまいます(笑)。

空腹は多少制御できました。ボクシングのマンガに影響され「ハングリー精神を養う」などと小学生にとって無意味でアホなことを公言して、数日間飲み物だけで過ごしたことがありました。後で思えば学校の先生には「子供なのにいったいどんな給食も喉を通らないほどの悩みがあるのだ?」と勘ぐられるのも当然で、誰も居ない部屋に呼び出されて「忍耐力を鍛えている」などと釈明する私に怪訝な表情をしていた先生の顔が忘れられません。

暑さ寒さは慣れてしまえば最もなんとかなったように思います。単純に、子供は大人に比べて生命力が強いというだけのことかもしれませんが…(笑)

話を戻しますと「人間は生理的欲求を充たすことが第一だ」の部分については皆さん異論がないでしょう。実は例外もあるのですが、ここでは「肉体を持つからには原則そうである」とさせてもらいます。それから順次続くとされる「安全・社会所属・評価・自己実現などの欲求は、人によってまちまちである」というのが私の見解ですが、今回の話の趣旨はそこではないため割愛します。

私の言いたいことは「どんな人でも原則、生理的欲求を阻害されると醜さ満点の反応をしやすい」ということです。本能欲求に忠実に生きている人ほどそうなりやすいわけですが、わかりやすく言うと「間接的にでも食欲や性欲や睡眠欲を邪魔する行為には容赦ない」みたいなことです。

動物としての側面を持つのが肉体をまとった人間ですから、その方の普段の人柄がどうであろうとも、そこで急変してしまうのが悲しくも多くの肉体人間なのです。それが今の社会のしくみですとお金を使って欲求を充たすことがほとんどですから、稼ぎに響く勝敗や出世などが絡む場合に動物的本性がむき出しとなりやすいのですね。

複数の動物が同じ獲物を咥えて引っ張り合っている姿が、経済競争の名の下に顧客獲得合戦をしている人間の姿とまんま重なるのです。現実は綺麗ごとでは済まされない、獲物をゲットできなければ動物も人間も生きて行けなくて当然だというわけです。

動物だけれども他の動物よりも複雑な手段を使って生理的欲求を充たし、歪みをとことん溜め続けるているのが人間でしょう。少なくともほぼ全員がそれを容認して参画しているから、維持できている人間社会のしくみです。そんな獣のような人間の行いを見ていると、私は醜さを感じずにはいられないのです。

そんなヤワなことを感じていたのでは、この世界では弱者で終わって当然… 実際、とんでもなく醜悪な人間が大手をふって活躍してきた歴史があります。でもそれは物質面での話です。人間と他の生物とでは非物質面に著しい違いがあるのです。

肉体生命維持のためならなりふり構わず必ず何でもするという醜い人間ばかりではありません。必然的に無名となってしまうわけですが、いつでもどこでも美しい生き方をしている人間だって存在しています。

人間の非物質側面に皆が気付けば、物質人間社会だって大きく変容せざるを得ないと思うのです。

「私は宇宙人」だというあなたへ
2017年08月15日

「私は宇宙人」だというあなたへ

『美しい星』。最近映画化された元となった作品のようです。映画はだいぶ脚色された娯楽ものになっているようで興味がないのですが、原作は熟読してみたい!というわけで、私のお盆期間のお楽しみでした。

まずは「今から半世紀以上前の作品なのにスゴイ!」です。今でさえ自称常識人からはコメディの扱いを受けても仕方のない内容なのに、やはり三島由紀夫はかなり先を行っていた真理探究者なのだということだけでなく、それを作品として堂々と発表していた姿勢に感服です。地球人として生まれた複数の宇宙人の苦悩や葛藤を描いた作品ですが、この一点だけで作家人生を棒に振る可能性だって十分にあったでしょうに…

学校教育のおかげで読書なんて大嫌いになっていた私でしたが、これを中学生の頃にでも読んでいたのならどれだけ地球で生きることの参考になっていたことか、と思うと悔しくもあります。まあ、情報入手を模索しながら試行錯誤して不器用に年齢を重ねてきたこと自体に人生ゲームを面白くする要素があったので、読んだのがなるべくして今になったのでしょう。

思春期に陥りやすい、私も一度は通った道「自分は地球人じゃないからこの惑星に馴染めない~」的な感情を下手に刺激するぐらいなら、はっきり言って読まない方が良いです。私がそんな考えを実際どのようにして改めたのかを書いてみます。参考になる方がいらっしゃるかもしれませんから(笑)。

私は海や湖が好きで、身体を悪くする前はよく一人で釣りに出かけていました。独り大自然と向き合っていると、思考の枷が外れてよいアイデアが湧くことが多いからです。

ある時、私に釣られた魚が「自分は普段この海域にはいないんだ。たまたま変な所に迷い込んでわけもわからず泳いでいたら、今釣られてしまった」と言い訳したような気がしました。食材確保が目的ではないのでリリースしたにしても、そんな事情は無関係。釣られたことは釣られた、というのが事実です。

それと同じで、地球人に見える容姿で人間の生活様式を取り入れて暮らしているのなら「私は宇宙人だから」みたいな言い訳をしたところで何の役にも立ちません。明らかに宇宙人であることが地球人にも判る何かを提示すれば特例が生じるのかもしれませんが、ヒラメの大群にカレイが混じっていた事実が判明したところで、それが何?ですよね(笑)。

自分の特性が周りと違うことに早目に気付けたのなら、それはチャンスです。自分にはできても周りの人にはできない何かを磨けばそれが特技や職業となって、皆にも喜ばれるわけです。

でもその反対をやってしまう場合が多いのですよね、学校教育の害です。「皆にはできる何かが自分にはできない」という部分に焦点を当ててしまうのです。そんな事があまりにも重なると「本質的に皆とは種が異なるから」という口実に持って行きたくもなるのです。

何県民でも日本人です。つまり地球人はみんな宇宙人です。何県で働くにしても「私はこことは違う○○県出身だからそれができない」などという言い訳は通じないのです。

特定宇宙人の名誉毀損とならないようにするためにも(笑)、私は「何星人か」を重要視しないように努めて地球人をやっています。

誕生して死亡すること自体が人生の意味
2017年08月11日

誕生して死亡すること自体が人生の意味

「人間の生死にどんな意味があるのか」ということについて、いくら熱く語ったところで正解はないでしょう。存在する人間の様々な生き方のあらゆる視点から「だからこそ意味がある」と力説することもできますし、「はじめから意味なんてない。気付いたら生きてるんだから、無駄な事をつべこべ言うな!」という人も少なくありません。

私の見解は、この空間と時間という制約だらけの物質次元に肉体として登場して去って逝くわけですから、人間を肉の側面から見るのなら、この世界独特の縛りである「場所と時代」にはどうしても大きな意味を感じてしまうわけです。それは現代日本で言うならば「何年何月何日に何県何市で誕生して、同じく何時どこで肉体死を迎えたのか」ということになりますね。

昨年の今日、出産予定日の妻と一緒に救急搬送された脳幹出血中の私は、集中治療室で五感を順次喪失しながらも近くの病棟で産声を上げるであろう息子のことを想い、そのことの妙にしみじみ感じ入りながら意識を失って行きました。心肺停止を予測されながら、そこから1~2週間は植物状態でこの世とあの世の間をウロウロしていたわけですが、皆が仕事まで休んで霊を迎えるお盆と呼ばれる時期だけに、世界の境目が薄くなる時期でもあるのでしょう。

何はともあれ、息子は今日無事1歳を迎えました。その間私も同じく寝たきりからのリスタート。口以外からチューブで物質的栄養を摂取し、糞尿垂れ流しで奇声を発するだけの状態から、起き上がり・立ち・歩き・手指の使い方・口と舌の動かし方を訓練をするといった、同じプロセスを並行して成長した同志と過ごし、はや1年たったのです!

「この世に物質で出てきた屈辱とその克服のための模索は、肉体死まで続く上限のない課題である」そう以前から覚悟はしていましたが、まさか一つの肉体でこのレベルの学習をリピート体験するとは思いもよりませんでした(笑)。

肩車などはできないでしょうが、公園で軽いボール投げみたいなことはできるような身体を取り戻すように地味な訓練を継続します。

この話をここまで読んだ方なら、もうおわかりでしょう。

人間はどんな境遇であろうと、考え方と取り組み方次第で、全てが達成の喜びと学びの感謝へとすりかわってしまうのです。

次回の異次元リアリティ認識イベントは9/10
2017年08月10日

次回の異次元リアリティ認識イベントは9/10

第9回【高次元波動体験会】を、本日から丁度一ヶ月後の9/10(日)に開催いたします。

クリスタルボウル演奏による誘導ですと特に、よりリラックスした深い体験ができるとのことで近況は多くの皆さんに横になってもえるようギャラリースペースにフロアマットを広げての開催でした。次回は久々に地下サロンでの開催ですので、横になって堪能できる方は一部となりますが、実は座して寛ぐ方が異次元旅行らしい体験ができたりもします。

身体を横にして寛ぐことは誰もが原則毎晩しているわけですが、出先でも横になればやはり本当の睡眠になってしまう場合があります。睡眠中の夢に近いファンタジーを見聞きして還ってきても「それがこの肉体物質次元にどんな意味があるのか」という観点からすると、その場で周りの人に聞かれてでも自分の入手した情報の意味を知りたい!という体験ができるとも限らない部分が…(笑)。

多くがチェアやソファとなる次回はその分、皆さんにも解説しやすい生活直結型のヒントやメッセージが多くの方に降りてくることでしょう。俗に言うスピリチュアルイベントに好感を持てない方にこそ、是非とも体験していただきたい『異次元リアリティ認識イベント』です。

日時:9/10(日)13:30~17:00  参加費:当日受付時に5千円
お申込みは下部【お問い合わせ】をクリックしてお名前をお知らせください。
会場は新橋日比谷通り沿いのビルで、お申込者には詳細をご案内いたします。