お知らせ

興味が向くもの
2018年02月20日

興味が向くもの

人は誰しも観察対象を自然と「好き・嫌い・どちらでもない」の、おおよそ3種類に分けて認識し、それぞれの反応を示すものです。ところが乱暴な言い方をするようですが、実のところ大雑把に「関心がある」「関心がない」の2種類しかないと私は考えています。

 「嫌う」という行為はエネルギーなどのコストをわざわざ投入するという意味で、自覚がないだけでお金や時間を費やす好きな事と同列扱いしているのです。

本当にどうでもよいと感じることに関わりを持ちそうになった場合、奪われるエネルギーを最小限で済ますためにも多くは軽い嘘などを駆使し(笑)摩擦最小限で切り抜けようとするものです。金銭報酬だけを目的に労働をした経験のある方ならすぐにわかる簡単な話です。

では「嫌う」という現象は何なのでしょう。私はそれを一言で表すのなら「自分自身の葛藤」だと思うのです。わかりやすい例を挙げてみましょう。本当にあくまでも例で、特定の誰かをイメージしたものではありません。 

若い頃に異性の誰かから好意を抱かれた場合(ストーカーなどは論外ですが)自分には何の実害もないのにその相手のことを嫌っているような素振りをすることがあります。

男性なら「俺の彼女になりたければもっとおしとやかで気の利く女にでもなれ!」なんて強気な思いもありながら、「実際にそうなら花形スポーツ選手とでも付き合うだろう。パッとしない俺なんかに好意を示してくれるのは、これから先もあれくらい図々しくて単純なタイプしかあり得ない。つまり悔しいけど釣り合っているってことか?」…

女性なら「アンタみたいにブサイクで低所得な男ってサイテー。見た目はしょうがないとしても、私は年収1億以上の男しか興味ないの!」とか咄嗟に言ってしまうのが習慣化してしまったものの、家では夜な夜な一人ため息をついてカップラーメンをすする生活を長年しているうちに突然取り乱して「もう無職でも何でもいいから誰か私と結婚して~!」(笑)

つまり自分が理想とするところと今の自分の実態とのギャップを受け入れられないと、実態に即した人なり物事なりを拒否することで理想だけを維持しようとするのです。

理想を掲げること自体は悪いことではないのですが、実力を理想に近づける努力を継続する人が極端に少ないのでしょう。あるいは理想を掲げること自体が目的なので、目的を失わないためにも実態は理想とはかけ離れている方がよいのかもしれません。

私が何を伝えたいのか… あなたが嫌だと感じる物事や人物は、今のあなたの現実を象徴的に映し出している重要な何かなのです。あなたが不快に感じる何かは、あなたが認めたくないあなた自身の一部なのです。それらを認めて受け容れて初めて、努力を継続して状況を変えることができるのです。

 

一昨年、集中治療室で意識が戻ったばかりの頃の私は、あまりにも濃厚で大量の異次元体験記憶の整理に忙しく、この肉体に起こった脳幹出血に伴う小脳損傷という惨事が些細な事に感じました。それでも徐々に意識がはっきりするにつれ、寝たきりで操れない身体から常時猛烈な痛みや痺れを感じ取るようになってきたのです。 

眼はほとんど視えません。食料を口から摂取しないので味覚も想像すらできません。でも周りの患者の苦しそうなうめき声ははっきり聴こえます。倒れて意識が遠のく中、一切無音の世界に入った瞬間ははっきりと憶えていますが、その聴力機能の喪失は一時的なもので済んだようです。身体を起こしてもらい車椅子に乗せられて行く先はトイレです。漏らした排泄物を感じ取れるまでに皮膚の感覚が戻ってきたのです。

そんな状況の中、ろくに見えない天井を仰いで覚悟を決めました。

「こんな肉体でもまだ少しは動くし思考ができる。ならば、これまでのような自由は利かなくてもせめて付きっきりの介護なしで暮らせる身体にまでは努力を継続しよう!」

私が本気で良くなると決めて入院したリハビリ専門病院では、患者の皆さんが辛くて嫌がっているというプログラムでは物足りなかったくらいです。おかげで話せてなんとか歩けるようになって退院しました。

徐々に和らいではきましたが、今でも常に痺れと痛みはあります。それでも毎日数時間は歩きに出ます。そうしないとすぐに歩けない身体に戻ってしまうのです。睡眠中も1時間おきくらいでトイレ(漏らしたくないから)。あらゆる影響から排泄制御はやはり難しいのです。それに数時間も連続で横になると、介添えなしでは起き上がることができなくなってしまうから丁度良いのです。

ポンコツとはいえ、今使っているこの肉体死を見届けることができるその日までは努力を継続して行くしかありません。でも、その甲斐あって一見は健康な人に見えるほど、介護なしで歩いたり話したりできているのです。

近頃では「好きなことだけやっていればいい」なんて言葉が流行っているようですが、もしかしたらその「好きなこと」とは、つい先ほどまで「嫌いなこと」として認識していたものを指しているのかもしれません。

今回の文脈からすると「あなたが興味の向くものに集中しましょう・お金のためとはいえ、どうでもいいと感じることに時間やエネルギーを注ぐことは不健康です、あなたはロボットではないのですから!」ってな感じでしょうか。

僅かに見えて大きな違い
2018年02月13日

僅かに見えて大きな違い

自分にとっては凄く大きな変化であっても、周りからしてみたら気付かないくらい些細な変化だったらしい… そんな経験を皆さん幾度となくされてきたのではないでしょうか。

「関心事が違う・同じ関心事でも視点が異なる」等々、いくらでも理由は挙がるでしょう。それが男女なら、その言い訳にいつも苦労している人も少なくないはず!

さて、いつもの観点で書きましょう(笑)

それは、外見上の変化などより内面の心理的変化から感じていることなのでパッと見でわからない、つまり本人だけが感じている大きな変化であることが原則だからです。どういうことかと言いますと、ベタな話ですと髪型や化粧を含めたファッションがまさにそうです。

すれ違って視線を外したり、逆に凝視してしまうような極端な例はこの際外しますが、例えば、ずっと嫌っていたデザインの上着がひょんな事から気になってしまい、買って身に付けて外出したとします。街では特に目立つこともない色と形と素材で、いつも会っている仲間は何も言わなくても「相変わらず無難で一緒にいて安心できるファッションだな」と感じていたとします。

ところが着ている本人からしてみれば、凄く思いきった格好で外出中なわけです。「過去のこだわりを払拭できた」とか「好みのセンスがこんなにも変わった」とか「昔ならユルせなかったこんな服を買ってまで着ている、寛大になった私」とか…笑

いずれにしても自分では心理的に凄い変化なのですから「アンタはこの大変化に気付かないってわけ!?」くらいに思ってしまうのですね(笑)

ファッション以外でも、いくらでも例を挙げられます。

そうです。「外見等の物質的変化はほんの僅かであっても非物質的には大きな変化」とは原則、本人にしかわからないのです。しかしそれは実際に途轍もなく大きいものなのです。ですから長年低頻度で接している人になら「あの頃から変わり出した」とわかることがあります。

そして、そのような機会を重ねて次第に見えてくることがあるのです。それは「誰にでもすぐにわかるような変化は真に深い変化ではない・人間の内面とは、他人にわからせようしても簡単にわかってもらえるはずがないし、また、そうする必要も全くない」…

上述を「若くして悟った」みたいに早とちりしてしまうのが「ひきこもり」だと私は思うのです。

そこでもうひとふんばりしてほしいのです。物質世界では時間が掛かりますが、ほんの僅かであっても「感じること・言うこと・すること」を変えて根気よく継続していれば、それは必ず伝わって結果的に人間関係を筆頭に大きな物理環境の変化を確実に起こします。

「ある特定人物を理解すること」は、万人にとってかなりハードルの高いことなのですから「自分を理解してほしい」など叶わなくて当然なのです。そもそも、大抵はそういう本人自身が自分を理解していないのですから!笑

ちょっと見での人の印象は、後で思えばほぼ誰でも「思い込みだった」と感じるものです。

ですから変な話ですが、私の記事を読んだりイベントにお越しくださった方々の反応は、薄い方が嬉しい部分もあります。仮に(本当に仮の話ですが)何かが見えたとか聞こえたとかで大騒ぎしている人が出たとしたら「物理現象に近い側面に注意を引かれて内面変化にまで導けなかったのか…」と思ってしまう(笑)ということです。(肉体をお持ちの方でも既に十分変化に富んだ領域に日常的に達していらっしゃる方で、遠慮なくごく普通に接してくれる方もいます。何事にも例外はあります)

自分が変化成長していることを誰かにわかってほしければ、その新しい自分がすることを継続することで物質世界に表現し続ける…回りくどいようでもそれ以外に方法はないのです。そしてそれがこの世界にいる意味です。すぐその場での反応を求めるのは、赤ちゃんだけの特権です(笑)

皆さんが後年になって思い返してみて「あの時期に出合ったあの人が今の自分に最も影響を与えた」という人物、誰かしら思い浮かぶでしょう。その方が他界しているケースも多いでしょうが、それが良い影響だったと思うのならおそらく、その方はこの世的に目立たない人である可能性が高いのです。赤ちゃんみたいに派手な何かに反応して騒いだりふてくされるのも素直で結構ですが、一見地味だからこそできる深くて静かな生き方に魅了される人が増えているように思います。

第一印象
2018年01月30日

第一印象

新しく知り合う相手の第一印象次第で以後その人との関わり方が大きく異なる、というのが一般的でしょう。私のように「人間の本質とは…」みたいな事に常に興味を抱いている変わり者を除けば(笑)

だからこそ、初対面の人に自分が好印象を与えられるよう細心の注意を払うことを必須とする職種は多いですし、プライベートでも会う人会う人に「イヤな人・変な人」などと思われないよう努力するのも普通のことでしょう。逆の言い方をしますと、最初のイメージと長年付き合ってみた実態のギャップが大きい人がとても多いのです。これは善悪とも正誤とも無関係です。

 

経済最優先社会においては、悪印象を持たれた時点でお金を落としてもらえなくなるのですから、利潤追求が目的の組織、つまりほぼ全ての法人に属しているかぎりそのような教育を受けることが当然なのです。

ですから社会人として歳を重ねると、それなりに見えてくること。それは皮肉にも「正体がばれたらマズイ人ほど印象を取り繕うことに躍起だ」という事実です。誰だってこのことがわかってくると、法人であれ個人であれ相手の見方も変わってくるものです。特に近年、世の中そうなってきた感が私には強いです。みなさんはどうお感じでしょう…

これは、綺麗ごとを謳っている人ほど胡散臭く感じられる一方、一見飾ることなく地味であってもする事さえしていれば「嘘偽りがない」証であり、その、している事の質次第では信頼のブランドに充分なり得ることを意味します。

要するに「質」の時代に入ったのだと思うのです。身近の誰が何と言おうと、自分の提供する何かしら(物質とは限りませんし、それがいくつなのかもわかりません)の質を磨いて行けば間違いないのです。

取り繕うことは、努力虚しく何も実りません。しかしそれも経験してこその学びです。

今の社会システムに上手く乗っかって暮らせていても嘘偽りで固められた人生は、一生常に迷いの中にあるも同然… 本人が最も苦しいのです。

若くても飢えや病気で物質生命を維持できずにポロポロ肉体死に至って当然だった時代や場所は常にあったでしょう。しかし金銭名誉的に何ら困ってなくとも人生に迷っている方がこんなに沢山いた時代はあまりなかったでしょう。

迷うのも、本人が「迷い」を選択した結果なのですから、周りが「迷うな」と言うのも大きなお世話です(笑)。それに何より、迷っていられるだけの余裕がある!

だからこそ今の時代を肉体で生きることは面白いのかもしれません。

自分の正しさ
2018年01月26日

自分の正しさ

最近、「自分さえよければいい」人の典型的な行動を目撃したため、改めて思うところがあっての投稿です。

いったい何年ぶりなのか詳しくは知りませんが、先日東京都心でも雪が積もりました。
一昨年に一度寝たきりとなってから再び普通に移動できる身体になろうとして、ここ一年半あらゆるリハビリを試してきた私でしたが、雪道は未経験でした。それがまさか東京で試すことができたのです。

結果、いつもなら20分のところを60分かけて徒歩で転ばずに移動できました。
慣れない雪道は誰にとっても危ないのですから、状態の良い路面でも普段から転ばぬよう何とか歩いている私にとっては難関です。周りに歩行者や車がいたら大変な迷惑を掛ける可能性があるため、まだ暗い5時頃を選んで慎重に歩き出しました。

目的地であるファミレスに無事到着したので安心して充分な休憩を取り、帰ることとしました。
さっきはまっさらだった雪道も車や歩行者で徐々に踏み固められてきてだいぶ歩きやすくなっています。建物の管理人らしき人が雪掻きをしてくれている姿もちらほら見えます。「ありがたいなぁ」と思って歩を進めていると、「おや?」と思う光景に出会いました。

片側一車線でバスも通る、いつも「危ないな…」と感じて通っている狭い道が渋滞しています。「やはり事故かな?」
歩行者の幅は確保できていたので私が通りすぎると、ただででさえ雪で狭くなっている車道を汚い雪の小山が塞いでいます。そのすぐ脇の店舗(学習塾)主なのでしょう…店舗すぐ前の側溝に積もった雪が凍って流れないからスコップで車道にずらして山積みにしているのです。

果たして何のイヤガラセなのか? どっきり番組の収録なのか??

雪掻きをしているつもりのオジサンの表情は険しくて、周りの視線などおかまいなしでした。

周りに迷惑をかけている人を見かけて「相手が子供でも注意する大人がいない」なんて論議はよくあります。ところが大人が真剣にやっているところを見かけた場合の難しさをひしひしと感じました。

何をしていても、それはその人なりの「当然」なのだから…
個人のいがみ合いから国家間での大量殺戮まで、それぞれが異なる内容の正誤や善悪を主張して起こる…それが人間社会だと私は考えるからです。

たまたまですが、受験ビジネスの事業主にとって「自分の都合だけで努力するのではなくて周りを思いやる」などという思想は相容れないに決まっています。自分が枠に収まることだけが目的なのだから当然、枠からこぼれ落ちる者を気遣ってどうする!ですよね(笑)

極端な言い方をすれば「自分さえよければ他人のことなんて知ったこっちゃない」ルールで勝ち残った者が今の社会では優位に立っている傾向があるのです。

「迷惑をいくらかけてもよい強者を目指せ。ひたすら迷惑をこうむる立場(弱者)にだけはなるな」思想とでも申しましょうか(笑)

「人間は多層構造をしていて本質が非物質の愛だの智恵だの云々を語ったところで、物質肉体としては残念ながら弱肉強食の醜い獣でしかないのだ…」
色々と想起させられる早朝のワンシーンでした。

毎日が元旦
2018年01月02日

毎日が元旦

みなさん、あけましておめでとうございます。
この投稿は、せっかくのお正月ムードに水を差す目的で更新するわけではありませんので(笑)誤解なきようお願いします。

昨日は元旦でしたが、その他にも世間の多くの人に特別扱いされている日があります。たまたま現代の地球全域で広く使われいるグレゴリオ暦に基いた結果ですが、一部のサービス業を除く働く人の多くが連休になるという事が特別である最大要因でしょう。
普段はゆっくり過ごすことのできない人たちとも集まって、安心して飲食や宿泊をして過ごすことができるわけです。無条件でプレゼントや現金をもらえる子供はともかく、この毎年訪れる年末年始のプライベートな仕事がストレスとなっている方もいらっしゃるようですが…

ここで私がテーマにしたいこと「では、普通に過ぎ行く毎日は特別な日ではないのでしょうか?

もちろん、誕生日をはじめとする「○○した日」などの個別の記念日はあることでしょう。しかしそれらもカレンダーを基準にした、子供が宿題を思い出すように毎年巡って来る日なのです。私が言いたいのは暦を無視した日時感覚のことです。

春休みが終わったばかりの子供が「早く夏休みにならないかな~」と思うように、出勤しても「はやく勤務終了時刻にならないかなぁ」「まだ水曜か…はやく土曜にならないかな~」などの思いは明らかに「特別な日に対し、価値の低い特別でも何でもない時間を過ごしている」と捉えているからこそ湧き起こる考えです。

このように過ごした一年を振り返って「あっという間」だったとしても、それは単調な毎日に意識を向けないようにして早く過ぎ去ることだけを願っていた当然の結果です。なのに不思議と、このタイプには病や死を強く怖れている人が多いのです。そして人生の最期にはもちろん「自分はいったい人生で何をしていたのだろう…」となりやすいでしょう。

肉体を忙しく動かすという意味でなく、精力的に何かに打ち込んでそれなりの感触を得た人ならば「たったの1年だっけ?もう5年くらい前の事かと思った」となるのであり、そんな人は常に「いつ死んでも構わない」と考えるふしがあり、病や死を過剰に怖れないそんな姿勢が更に多くの物事を成し遂げやすく、実際に健康長寿で肉体人生を終える傾向にあるようです。

つまり、万人にとって本当は毎月・毎週・毎日が特別であるということです。カレンダーとは今の文明社会とやらを機能させるために要した統一基準です。皆にそれぞれの暦があるのが本来であって、地域性や人種によっても時間感覚は全く違うのです。ちなみに、何度もお話していますが非物質存在には時空感覚がありません。時空に縛られて錯覚している物質存在のために便宜上、直線時間やサイズというものが実存するようにコンタクトしてくれる優しい存在がいるだけです。

明日でさえ100%生きて会える保障は誰にもありません。それが生身の人間というものです。そのことを胸に刻んで、つまり一日一生という生き方が大切なのです。身近な人の突然死、自分自身が死んで当然の事故や病気に遭った場合、このことに気づきやすいでしょう。(死んでから気付いてもこの世界では肉体がないと何ともできないルールです! 他界して憑依したり霊障を起こさないでくださいね~笑 それ故に輪廻転生みたいな概念も生まれるのでしょう)

要するに「肉体死」という万人にとって確実な事象を正面から受け止められない人には「肉体で意識的に生きる」こともできないのです。

日々を振り返ることで学習し以後の成長の糧にはしても、失敗からくる羞恥心や罪悪感、被害意識からくる復讐心などを明日以降に持ち越さないことです。はじめのうちは解せなくても感情や気分は完全に自分次第なのです。日々心を清めて毎日を気分一新の元旦にすればよいのです。

連日同じ作業の繰り返しだったとしても寿命が尽きるまで新鮮な気持ちの毎日を意識的に過ごすのか。

あるいはそんな事には思いも馳せぬまま何事も他人や環境のせいにして惰性の日々を送るのか。

物質的にも精神的にも、今のあなたの状況はそれらの積み重ねであなたが創ってきたのです。

毎日を元旦の気持ちで生きましょう!

自分教信者
2017年12月09日

自分教信者

突如年単位の休暇ができたとして、その間も過去の同期間以上の収入があるとしたらどうしますか?

ばからしく聞こえてしまうため露骨に答える人はあまりいないでしょうが、結果的には「暇を潰すために散財し、預貯金(借金)を気にしながら過ごす」となってしまう方が最も多いはずです。

笑い事ではなく実際そのような方が世の中には常に一定比率で存在していて、その人たちがお金を増やそうと時間を潰してかえってお金を巻き上げられるようなしくみが社会のあらゆる箇所で機能しています。それはそれで、ケチで強欲な人ほど大金を寄付することとなるためバランスがとれているのかもしれません。

善し悪しは抜きで、これらの方々のおかげで日本経済は発展してきたのでしょう。どういう意味かと言いますと「暇すぎて時間をもて余すくらいなら、まだ働いていた方がよい」という人々に支えられて組織が繁栄してきたのは事実だからです。「企業戦士」などという宗教信者のような思想が普及して、憧れの組織に入信した末の過労死が美化されるような社会風潮まであったのです。

政治や宗教にのめりこむのは表向きNGとなった戦後でも、カネの為なら命を削って当然・・・ほとんどの地球人を「金銭教」の熱心な信者とすることに成功したのです。

ところが「ブラック企業」等の言葉が一般化するような今の世の中では、「カネと名誉のためなら何でも犠牲にする」といった金銭信者は減る一方です。次は何信者の時代でしょうか…

私は「自分信者」の時代に既に入ったと考えるのです。自分を信じることでもあります。

そこで重要なのは自分の定義です。鏡に映る物質の肉体が自分なのではありません。それは自分自身のほんの一部です。人間の本質は見えないし触れることもできない非物質存在です。

非物質の本当のあなたは、この物質世界の中を時間と空間の制約だらけで生きている肉体…そんな限定された存在ではありません。

既存の名詞を使うのなら、自分自身とは大人でもあり、子供でもあり、でもあり、でもあり、地球人でもあり、地球に縛られない未知の生命体でもあり、他人でもあり、死人でもあり、神や仏でもあります。

自分を大切にしている人は、他人も死人も神仏も、万物を大切にしていることになります。
誰かを軽蔑できるのは、自分を蔑視しているからこそです。
見える物も見えないものも例外なく全てが自分自身の一部、誰にしてみても自分=宇宙なのです。

「愛」という単語はだいぶ歪曲された使われ方をしていますが、本来そういうことを表す単語だと私は思うのです。すると「愛こそがすべて」という言葉の意味が通じます。愛=宇宙であるのです。

そのことをもっと理解してささやかでも伝え続けることができるよう、私はまだこの物質世界でも不便な身体を維持できるよう努めています。そして皆さんもきっとそうなのでしょう。

性愛や執着ではない「愛」を理解して実践することが人生の究極の目的だと思うのです。

変化の時期
2017年12月03日

変化の時期

自分が生まれ育ったその町の住環境が基準となって子供時代を送り、10歳前後に他の町や市や国や星の存在を知る… 過去を振り返れば、みなさん大凡そんな具合ではないでしょうか。
親の都合であちこち転々とされた方もいらっしゃるでしょう。時代に翻弄される象徴である戦争によるもの以外でも、概して子供には理解できない大人の事情によるものが引越しです。それらは、せっかくできた友達との別れをはじめとする辛い記憶として残っているのかもしれませんが、私は「見識を広める・視野が広がる」という観点では貴重な経験だと思います。

子供の自由意志だけで叶えられることではないという意味で、高校生になるまでは原則町を出ることがなく狭い世界しか知らずに育った私には、同じ10代半ばでも知っている物質世界の範囲が広い人が羨ましくもありました。それは何故かと言いますと、知識では吸収できても体感を伴う経験によってしか得られない感覚を、早い時期から養うことができるからです。その後の実体験からしても「暮らし」とはそういうものです。

その分、いつも空想世界では大きく羽ばたいて少年期を過ごすわけですが「おかげで想像力が豊かになった」と思う反面、同じ高校生でも空想壁だけではどうにもならない物質世界の生活力で随分と差が出てきているのです。「そんな物理的拘束がイマジネーションを逞しくしたからこそ、それを活かした職に導かれる」といった例も多いですから、私は一概にこれが問題であると言いたいわけではありません。

転居の変化は星の緯度や経度に伴う気候の違いに限ったことではなく、飲食物、話す言葉など、それまで微妙な違いだと思っていた生活習慣が実はとても大きな違いだったと認識できるのは、肉体ごと移動したからこそなのです。空気感なんて言葉が日常的に使われているくらいですから、その場所の空気が最も大きく影響するでしょう。

もちろんここでの空気は大気を構成する酸素や汚染物質等の量ではなくて物質としては説明のつかない何かを、便宜上「空気」と呼んでいるだけです。隣の家に移動するだけでも外国に行くのと変わらないくらい非物質エネルギーの変化が出ることもあったりするのです。

この話題を今出した理由は、ここ数ヶ月の私自身が土地のエネルギーに関する重大事を物理的に実行していたため、思いのほか継続的に消耗して情報発信が疎かになってしまったからです。それだけその事に意識を集中させたかったということです。

私が元々死にそびれ(笑)なだけに「リハビリに失敗して何かあったのではないか?」等と勘ぐった方がいらっしゃるかもしれません。実はむしろ反対で、移動などの日常的な負荷に耐えられる平均的肉体へと戻りつつあるということです。とは言っても戻りつつですので、かつてと比べたらまだヨレヨレですが…(汗)

話を戻しますと、いくら映像や音声を入手できても、その場に肉体と非物質の自分(セット一式)がないと得られない経験をするというのがこの物質世界の人間の面倒くささであり、面白さでもあるのです。体外離脱を制御できる人の場合はその限りではありませんが、逆に言えばそれではこの物質世界に存在する意味がなくなってしまいます。

ですから皆さん、肉体を有して生きる煩わしさを積極的に楽しめばよいのです。 

瞬間移動ができなくても乗り物での移動中に意外な喜びがあります。私のように自転車も乗れなくたって車椅子やヨレヨレ歩きでも紅葉は見られます。私のように漏らすリスクが高くても(笑)糞尿をたれる情けなさに気を取られないで飲食物を味わいましょう(量ではありません)。感じられる範囲で音や香りを堪能しましょう。どこかに痛みや辛さががあっても眠りに就ける時があるのなら、それも毎日必ず訪れる至福の瞬間です。

生活を変えることが上述の諸々の感覚を養います。すなわち幸福感度を発達させるのです。ですから場所だけでなく、若くて早い時期にあれこれ変化が多かった人ほど晩年は幸福感が強くなる傾向があるのです。

皮肉にもそれが裏目に出て「だからもう変化はしたくない」という頑固さに陥ってしまうケースもあります。それでも若い頃に変化を沢山経験していれば、晩年の変化にも大概が対処できます。

暮らしの変化に対して免疫がない人は「何歳になっても人生の節目を上手く乗り切ることができない」といった具合になりがちです。つまり、それは晩年になるほど「人生こんなはずでは…」と感じやすい人生であり、それが近年の親や教師が子供に強いている暮らしです。そして、その甲斐あってか(笑)十代二十代から実際に不幸感覚いっぱいで生きている若者も多いようです。

「若いうちに苦労は買ってでもせよ!」なんて言って貰える若者はあまりいないのでしょう。それこそ、実践してこなかった人には本当の意味がわかるはずもない言葉なのですから…

 

文化的生活
2017年11月04日

文化的生活

昨日は「文化の日」という祝日でした。元は「明治天皇誕生日」だったそうですが、それが日本国憲法制定の記念日に変わったようです(制定でなくて施行の日が憲法記念日)。戦争放棄や基本的人権を謳う憲法がそのまま平和や文化を重要視している、という意味から付いた祝日の名称なんですね。

ここで「文化とは何ぞや?」と哲学を論ずる気は毛頭ないのですが(笑)知的なことや美的なことに意識を向けて探究したり発信するなんて、確かに平和だからこそできることなのです。

自分が肉体を持つ人間として飢えや病苦にあえいでいる場合、モラルの低い人から順次なのかもしれませんが、最終的には大半が肉体生存を最優先するためになりふり構わない獣と化してしまう…現代の先進国ではそれが多数派の生命観でしょう。そこには文化も芸術もあったものではありません。

このような話を聞くと、多くの皆さんは国家間の戦争や疫病の蔓延等をイメージするのかもしれません。ところが実際は悲しいかな…そんな大仰な事でなくても簡単に平和を乱して、動物的で利己的な行動を取ってしまう人間性が映画やドラマでの格好の題材となっているわけです。

ごくありふれた家庭内や職場でも、人間関係トラブルに悩んでいたとしたらどうでしょう。知的好奇心を充たす何かに勤しんだり芸術的創作活動に打ち込んだりする気力など湧かない!となってしまうのが普通でしょう。物理的に危害を加えられたり罵声を浴びたりし続けても知的美的な何かに没頭できたのだとしたら、それはもう悟りの境地です(笑)。

現代日本は一見、誰もが文化的な暮らしをしているかのようです。ところが、所有していて当然とされる最先端を行くその文化的ツールが何であれ、特定企業の利益追求の産物なのであり、それが無くては生活に支障が出るようなムードに洗脳された皆が当たり前に利益貢献させられているのです。

家賃や食費や養育費などの生活費をギリギリで工面させられて暮らしている上、更にほぼ全員がローンを組んでまで高額商品を購入させられているのですからこれはもう、庶民のほとんどが心理的には常に戦争状態

多くの場合は学校を出て気付けば自分が既にその立場となってしまっていたのでしょうが、文化は本来、戦争とは反対の意味なのです。しかし皮肉なことに戦争が現代地球人の文化を象徴しているのです!

「ビジネス」という体の良い単語を使っていても顧客なり契約なり役職なりを獲った!獲られた!勝った!負けた!という毎日を送っている場合、常に静かな経済戦争に参画してるというのが実態です。都会の多くの人々が文化的とはおよそ縁遠い生活をしている…

それが激しくても静かでも、自分が参戦している最中は夢中になっていて何にも気付けず、多くは終わったり抜け出してからはじめて「なんて愚かなことをしていたんだ…」と気付くのが、争いというものなのです。

気にしない方法
2017年10月08日

気にしない方法

前回の記事で気にしないことについて書きました。きっと「気にならないのならどんなに楽なことか!気になってしまうのだから仕方がない、だからこそ困っているのに…」と心で呟いている皆さんの声が聴こえたため(笑)続編です。

気になって気になってしょうがない、夜もろくに眠れない… 特別に神経質な人ではなくても、多くの人に経験のあることでしょう。

どうしても気になることがある場合の私の対処法は、どんなに壮大で時間がかかりそうな事でもすぐに、あるいはできるだけ早くそのことに着手してしまいます。気にしていながら手をつけずにいた場合は、結果がどうであっても後味が悪いからです。

「気になったから着手したまではよいが、まだ時期が早すぎた」という場合、それが確認できただけでも「その時期が来るまでの間は気にかけていても仕方がない」と納得できます。

気にしていながら行動に移せないという状態は「今それに着手しても自分の思惑通りの結果が出る確率が低い」と自分で判断しているケースが多いのです。それでしたら確率を上げる行動をすぐに開始すればよいわけで、気になる事の焦点をそちらに移動させればよいのです。気にかけている事柄をうまく運ばせるためにできる何かを実行するよう、意識を向け直すのです。

ですから、ひたすら気にかけているだけで何の行動も起こさない人とは、はっきり言って子供のように「努力や工夫はしなくても結果だけが欲しい」人なのであり、同時に大人らしく「この世の中にはそんなうまい話はない」とも思っている人であるということです。

結果を次々と出す人は、ここの認識や自覚がはっきりしている人です。

現実を変えるために取れる行動とは、ほとんどが小さな事ですがいつでも誰にでもいくらでもあります。その中身は人や時や場所によりますから、まさに様々とならざるを得ないためひと括りでは表現できないのですが、このことを個別に伝えることができた相手が一定期間で現実生活を変貌させて行く姿を、私はこれまでたくさん見てきました。

「気にかけたり悩んだりしている時間やエネルギーがもったいない」そう感じるようになったのなら、しめたものです。

逆に捉えますと、気にかけて悩んでいられること自体がまだまだ切迫していない余裕のある状態ということなのであり、常に瞬時に決断して行動しなければならない過酷な状況に比べたら、ある意味贅沢なことなのですね。

 

気にしないとは
2017年10月07日

気にしないとは

例えば、年齢や立場が自分より下の者が自分に対してきちんと挨拶してこなかったとします。

その相手がいつでもどこでもそんな調子ならば、上司なりお客様なりに気に入られることはないでしょうから、どこかで強く指摘されて気付くなどで改善しないかぎり、賃金を得て暮らすような人生はかなり難しいでしょう。そのような態度が些細な事であると思われるほどに卓越した特技や人間味などがあって、そんな調子で暮らしていても周りが目をつぶっているケースもごく稀にはありますが(笑)。

問題は、たまたまその時だけ自分への配慮が欠けているように映った場合、言葉や態度には表さないとしても「なんだ、こいつは挨拶もろくにできないのか!」などと自分が強く感じるかどうかです。

特定の相手が毎回必ずそうなのだとしたら、思いやりからも気になって本人なり周りの関係者なりに指摘したくもなるでしょう。しかし、たまたまそんな事があっただけなのだとしたら、それは偶然考え事をしていたタイミングにすれ違っただけなのかもしれません。それは挨拶に限らず、誰だって人間のする事には「見逃し・勘違い・うっかり」などということが付きものですから。

しかし、些細なきっかけが一度あっただけで「あの人、なんか好きじゃない」「アイツは失礼だ、けしからん!」などと決め込んでしまう人も少なくありません。そんな感情が湧く理由を少し考察してみましょう。

自分が本当はしたくない(必要だとか重要だとは思えない)、つまり腑に落ちていない何かを組織や誰かの都合で強要されて習得した場合、習得したかに見えたその後も実は身についてはいなくて、その人は常に不自然に意識してそのように振舞う努力をしているだけなのです。

それが心から納得できた何かなら、習得コストを惜しむこともなく進んで身につけ、短期間で新習慣にできます。ところがいつまでも「やらされ感」でしている事ですと、ちょっとした何かでも「不本意でも自分だってこのように振舞っているのに、アンタはそれをさぼるのか!」といった厳しい見方をしてしまいがちなのです。

言い方を変えれば、周りの期待に応えようと自分を偽って生きている要素が大きい人ほど他人に厳しく辛く当たる傾向があるということです。反対に他人に寛容な人とは、他者の意図や期待に応えようと自分を無理強いしていない、自然体で生きている人だとも言えます。しかし現代社会の中を後者のように生きることも、それはそれで多くの厳しさに直面することでしょう。

ですから、私の伝えたいことは「不本意な事ならば、やらないでいましょう」ではありません!

変化を起こすために新しい何かを習得するのならば、何事も納得して腑に落としてから「これが私の本意だ」という気持ちで取り組むことが大切だということです。そしてここでの留意点は「納得と完璧とは違う」ということです。

肉体を持つ人間に完璧はありません。すなわち完璧主義者とは皮肉にも一生自分で何事へも納得できないまま、他人へも不寛容に過ごす人生を意味します。

子供の頃の私には解らなかったのですが、今では「気にしない」「これでいいのだ」等のアニメの有名セリフは、本当に人生を楽しく豊かにする名言だと思えるのです。