お知らせ

自分教信者
2017年12月09日

自分教信者

突如年単位の休暇ができたとして、その間も過去の同期間以上の収入があるとしたらどうしますか?

ばからしく聞こえてしまうため露骨に答える人はあまりいないでしょうが、結果的には「暇を潰すために散財し、預貯金(借金)を気にしながら過ごす」となってしまう方が最も多いはずです。

笑い事ではなく実際そのような方が世の中には常に一定比率で存在していて、その人たちがお金を増やそうと時間を潰してかえってお金を巻き上げられるようなしくみが社会のあらゆる箇所で機能しています。それはそれで、ケチで強欲な人ほど大金を寄付することとなるためバランスがとれているのかもしれません。

善し悪しは抜きで、これらの方々のおかげで日本経済は発展してきたのでしょう。どういう意味かと言いますと「暇すぎて時間をもて余すくらいなら、まだ働いていた方がよい」という人々に支えられて組織が繁栄してきたのは事実だからです。「企業戦士」などという宗教信者のような思想が普及して、憧れの組織に入信した末の過労死が美化されるような社会風潮まであったのです。

政治や宗教にのめりこむのは表向きNGとなった戦後でも、カネの為なら命を削って当然・・・ほとんどの地球人を「金銭教」の熱心な信者とすることに成功したのです。

ところが「ブラック企業」等の言葉が一般化するような今の世の中では、「カネと名誉のためなら何でも犠牲にする」といった金銭信者は減る一方です。次は何信者の時代でしょうか…

私は「自分信者」の時代に既に入ったと考えるのです。自分を信じることでもあります。

そこで重要なのは自分の定義です。鏡に映る物質の肉体が自分なのではありません。それは自分自身のほんの一部です。人間の本質は見えないし触れることもできない非物質存在です。

非物質の本当のあなたは、この物質世界の中を時間と空間の制約だらけで生きている肉体…そんな限定された存在ではありません。

既存の名詞を使うのなら、自分自身とは大人でもあり、子供でもあり、でもあり、でもあり、地球人でもあり、地球に縛られない未知の生命体でもあり、他人でもあり、死人でもあり、神や仏でもあります。

自分を大切にしている人は、他人も死人も神仏も、万物を大切にしていることになります。
誰かを軽蔑できるのは、自分を蔑視しているからこそです。
見える物も見えないものも例外なく全てが自分自身の一部、誰にしてみても自分=宇宙なのです。

「愛」という単語はだいぶ歪曲された使われ方をしていますが、本来そういうことを表す単語だと私は思うのです。すると「愛こそがすべて」という言葉の意味が通じます。愛=宇宙であるのです。

そのことをもっと理解してささやかでも伝え続けることができるよう、私はまだこの物質世界でも不便な身体を維持できるよう努めています。そして皆さんもきっとそうなのでしょう。

性愛や執着ではない「愛」を理解して実践することが人生の究極の目的だと思うのです。

変化の時期
2017年12月03日

変化の時期

自分が生まれ育ったその町の住環境が基準となって子供時代を送り、10歳前後に他の町や市や国や星の存在を知る… 過去を振り返れば、みなさん大凡そんな具合ではないでしょうか。
親の都合であちこち転々とされた方もいらっしゃるでしょう。時代に翻弄される象徴である戦争によるもの以外でも、概して子供には理解できない大人の事情によるものが引越しです。それらは、せっかくできた友達との別れをはじめとする辛い記憶として残っているのかもしれませんが、私は「見識を広める・視野が広がる」という観点では貴重な経験だと思います。

子供の自由意志だけで叶えられることではないという意味で、高校生になるまでは原則町を出ることがなく狭い世界しか知らずに育った私には、同じ10代半ばでも知っている物質世界の範囲が広い人が羨ましくもありました。それは何故かと言いますと、知識では吸収できても体感を伴う経験によってしか得られない感覚を、早い時期から養うことができるからです。その後の実体験からしても「暮らし」とはそういうものです。

その分、いつも空想世界では大きく羽ばたいて少年期を過ごすわけですが「おかげで想像力が豊かになった」と思う反面、同じ高校生でも空想壁だけではどうにもならない物質世界の生活力で随分と差が出てきているのです。「そんな物理的拘束がイマジネーションを逞しくしたからこそ、それを活かした職に導かれる」といった例も多いですから、私は一概にこれが問題であると言いたいわけではありません。

転居の変化は星の緯度や経度に伴う気候の違いに限ったことではなく、飲食物、話す言葉など、それまで微妙な違いだと思っていた生活習慣が実はとても大きな違いだったと認識できるのは、肉体ごと移動したからこそなのです。空気感なんて言葉が日常的に使われているくらいですから、その場所の空気が最も大きく影響するでしょう。

もちろんここでの空気は大気を構成する酸素や汚染物質等の量ではなくて物質としては説明のつかない何かを、便宜上「空気」と呼んでいるだけです。隣の家に移動するだけでも外国に行くのと変わらないくらい非物質エネルギーの変化が出ることもあったりするのです。

この話題を今出した理由は、ここ数ヶ月の私自身が土地のエネルギーに関する重大事を物理的に実行していたため、思いのほか継続的に消耗して情報発信が疎かになってしまったからです。それだけその事に意識を集中させたかったということです。

私が元々死にそびれ(笑)なだけに「リハビリに失敗して何かあったのではないか?」等と勘ぐった方がいらっしゃるかもしれません。実はむしろ反対で、移動などの日常的な負荷に耐えられる平均的肉体へと戻りつつあるということです。とは言っても戻りつつですので、かつてと比べたらまだヨレヨレですが…(汗)

話を戻しますと、いくら映像や音声を入手できても、その場に肉体と非物質の自分(セット一式)がないと得られない経験をするというのがこの物質世界の人間の面倒くささであり、面白さでもあるのです。体外離脱を制御できる人の場合はその限りではありませんが、逆に言えばそれではこの物質世界に存在する意味がなくなってしまいます。

ですから皆さん、肉体を有して生きる煩わしさを積極的に楽しめばよいのです。 

瞬間移動ができなくても乗り物での移動中に意外な喜びがあります。私のように自転車も乗れなくたって車椅子やヨレヨレ歩きでも紅葉は見られます。私のように漏らすリスクが高くても(笑)糞尿をたれる情けなさに気を取られないで飲食物を味わいましょう(量ではありません)。感じられる範囲で音や香りを堪能しましょう。どこかに痛みや辛さががあっても眠りに就ける時があるのなら、それも毎日必ず訪れる至福の瞬間です。

生活を変えることが上述の諸々の感覚を養います。すなわち幸福感度を発達させるのです。ですから場所だけでなく、若くて早い時期にあれこれ変化が多かった人ほど晩年は幸福感が強くなる傾向があるのです。

皮肉にもそれが裏目に出て「だからもう変化はしたくない」という頑固さに陥ってしまうケースもあります。それでも若い頃に変化を沢山経験していれば、晩年の変化にも大概が対処できます。

暮らしの変化に対して免疫がない人は「何歳になっても人生の節目を上手く乗り切ることができない」といった具合になりがちです。つまり、それは晩年になるほど「人生こんなはずでは…」と感じやすい人生であり、それが近年の親や教師が子供に強いている暮らしです。そして、その甲斐あってか(笑)十代二十代から実際に不幸感覚いっぱいで生きている若者も多いようです。

「若いうちに苦労は買ってでもせよ!」なんて言って貰える若者はあまりいないのでしょう。それこそ、実践してこなかった人には本当の意味がわかるはずもない言葉なのですから…

 

文化的生活
2017年11月04日

文化的生活

昨日は「文化の日」という祝日でした。元は「明治天皇誕生日」だったそうですが、それが日本国憲法制定の記念日に変わったようです(制定でなくて施行の日が憲法記念日)。戦争放棄や基本的人権を謳う憲法がそのまま平和や文化を重要視している、という意味から付いた祝日の名称なんですね。

ここで「文化とは何ぞや?」と哲学を論ずる気は毛頭ないのですが(笑)知的なことや美的なことに意識を向けて探究したり発信するなんて、確かに平和だからこそできることなのです。

自分が肉体を持つ人間として飢えや病苦にあえいでいる場合、モラルの低い人から順次なのかもしれませんが、最終的には大半が肉体生存を最優先するためになりふり構わない獣と化してしまう…現代の先進国ではそれが多数派の生命観でしょう。そこには文化も芸術もあったものではありません。

このような話を聞くと、多くの皆さんは国家間の戦争や疫病の蔓延等をイメージするのかもしれません。ところが実際は悲しいかな…そんな大仰な事でなくても簡単に平和を乱して、動物的で利己的な行動を取ってしまう人間性が映画やドラマでの格好の題材となっているわけです。

ごくありふれた家庭内や職場でも、人間関係トラブルに悩んでいたとしたらどうでしょう。知的好奇心を充たす何かに勤しんだり芸術的創作活動に打ち込んだりする気力など湧かない!となってしまうのが普通でしょう。物理的に危害を加えられたり罵声を浴びたりし続けても知的美的な何かに没頭できたのだとしたら、それはもう悟りの境地です(笑)。

現代日本は一見、誰もが文化的な暮らしをしているかのようです。ところが、所有していて当然とされる最先端を行くその文化的ツールが何であれ、特定企業の利益追求の産物なのであり、それが無くては生活に支障が出るようなムードに洗脳された皆が当たり前に利益貢献させられているのです。

家賃や食費や養育費などの生活費をギリギリで工面させられて暮らしている上、更にほぼ全員がローンを組んでまで高額商品を購入させられているのですからこれはもう、庶民のほとんどが心理的には常に戦争状態

多くの場合は学校を出て気付けば自分が既にその立場となってしまっていたのでしょうが、文化は本来、戦争とは反対の意味なのです。しかし皮肉なことに戦争が現代地球人の文化を象徴しているのです!

「ビジネス」という体の良い単語を使っていても顧客なり契約なり役職なりを獲った!獲られた!勝った!負けた!という毎日を送っている場合、常に静かな経済戦争に参画してるというのが実態です。都会の多くの人々が文化的とはおよそ縁遠い生活をしている…

それが激しくても静かでも、自分が参戦している最中は夢中になっていて何にも気付けず、多くは終わったり抜け出してからはじめて「なんて愚かなことをしていたんだ…」と気付くのが、争いというものなのです。

気にしない方法
2017年10月08日

気にしない方法

前回の記事で気にしないことについて書きました。きっと「気にならないのならどんなに楽なことか!気になってしまうのだから仕方がない、だからこそ困っているのに…」と心で呟いている皆さんの声が聴こえたため(笑)続編です。

気になって気になってしょうがない、夜もろくに眠れない… 特別に神経質な人ではなくても、多くの人に経験のあることでしょう。

どうしても気になることがある場合の私の対処法は、どんなに壮大で時間がかかりそうな事でもすぐに、あるいはできるだけ早くそのことに着手してしまいます。気にしていながら手をつけずにいた場合は、結果がどうであっても後味が悪いからです。

「気になったから着手したまではよいが、まだ時期が早すぎた」という場合、それが確認できただけでも「その時期が来るまでの間は気にかけていても仕方がない」と納得できます。

気にしていながら行動に移せないという状態は「今それに着手しても自分の思惑通りの結果が出る確率が低い」と自分で判断しているケースが多いのです。それでしたら確率を上げる行動をすぐに開始すればよいわけで、気になる事の焦点をそちらに移動させればよいのです。気にかけている事柄をうまく運ばせるためにできる何かを実行するよう、意識を向け直すのです。

ですから、ひたすら気にかけているだけで何の行動も起こさない人とは、はっきり言って子供のように「努力や工夫はしなくても結果だけが欲しい」人なのであり、同時に大人らしく「この世の中にはそんなうまい話はない」とも思っている人であるということです。

結果を次々と出す人は、ここの認識や自覚がはっきりしている人です。

現実を変えるために取れる行動とは、ほとんどが小さな事ですがいつでも誰にでもいくらでもあります。その中身は人や時や場所によりますから、まさに様々とならざるを得ないためひと括りでは表現できないのですが、このことを個別に伝えることができた相手が一定期間で現実生活を変貌させて行く姿を、私はこれまでたくさん見てきました。

「気にかけたり悩んだりしている時間やエネルギーがもったいない」そう感じるようになったのなら、しめたものです。

逆に捉えますと、気にかけて悩んでいられること自体がまだまだ切迫していない余裕のある状態ということなのであり、常に瞬時に決断して行動しなければならない過酷な状況に比べたら、ある意味贅沢なことなのですね。

 

気にしないとは
2017年10月07日

気にしないとは

例えば、年齢や立場が自分より下の者が自分に対してきちんと挨拶してこなかったとします。

その相手がいつでもどこでもそんな調子ならば、上司なりお客様なりに気に入られることはないでしょうから、どこかで強く指摘されて気付くなどで改善しないかぎり、賃金を得て暮らすような人生はかなり難しいでしょう。そのような態度が些細な事であると思われるほどに卓越した特技や人間味などがあって、そんな調子で暮らしていても周りが目をつぶっているケースもごく稀にはありますが(笑)。

問題は、たまたまその時だけ自分への配慮が欠けているように映った場合、言葉や態度には表さないとしても「なんだ、こいつは挨拶もろくにできないのか!」などと自分が強く感じるかどうかです。

特定の相手が毎回必ずそうなのだとしたら、思いやりからも気になって本人なり周りの関係者なりに指摘したくもなるでしょう。しかし、たまたまそんな事があっただけなのだとしたら、それは偶然考え事をしていたタイミングにすれ違っただけなのかもしれません。それは挨拶に限らず、誰だって人間のする事には「見逃し・勘違い・うっかり」などということが付きものですから。

しかし、些細なきっかけが一度あっただけで「あの人、なんか好きじゃない」「アイツは失礼だ、けしからん!」などと決め込んでしまう人も少なくありません。そんな感情が湧く理由を少し考察してみましょう。

自分が本当はしたくない(必要だとか重要だとは思えない)、つまり腑に落ちていない何かを組織や誰かの都合で強要されて習得した場合、習得したかに見えたその後も実は身についてはいなくて、その人は常に不自然に意識してそのように振舞う努力をしているだけなのです。

それが心から納得できた何かなら、習得コストを惜しむこともなく進んで身につけ、短期間で新習慣にできます。ところがいつまでも「やらされ感」でしている事ですと、ちょっとした何かでも「不本意でも自分だってこのように振舞っているのに、アンタはそれをさぼるのか!」といった厳しい見方をしてしまいがちなのです。

言い方を変えれば、周りの期待に応えようと自分を偽って生きている要素が大きい人ほど他人に厳しく辛く当たる傾向があるということです。反対に他人に寛容な人とは、他者の意図や期待に応えようと自分を無理強いしていない、自然体で生きている人だとも言えます。しかし現代社会の中を後者のように生きることも、それはそれで多くの厳しさに直面することでしょう。

ですから、私の伝えたいことは「不本意な事ならば、やらないでいましょう」ではありません!

変化を起こすために新しい何かを習得するのならば、何事も納得して腑に落としてから「これが私の本意だ」という気持ちで取り組むことが大切だということです。そしてここでの留意点は「納得と完璧とは違う」ということです。

肉体を持つ人間に完璧はありません。すなわち完璧主義者とは皮肉にも一生自分で何事へも納得できないまま、他人へも不寛容に過ごす人生を意味します。

子供の頃の私には解らなかったのですが、今では「気にしない」「これでいいのだ」等のアニメの有名セリフは、本当に人生を楽しく豊かにする名言だと思えるのです。

感動のしくみ
2017年09月20日

感動のしくみ

私が脳幹出血で視聴覚・味覚・触覚・嗅覚をはじめとする感覚や、歩行はおろか起き上がりや飲み込み等の基本的な肉体機能を一旦は完全に失ってから、早くも一年以上が経過しました。

「死亡か植物状態のままか…」と一度は憶測されていたようですから(他人事のように!笑)よくもここまで持ち直したものです。おおよそどの機能も徐々に取り戻してきていますが、どれひとつ取っても元通りのレベルというわけには行きません。それでもやはり優先順位を決めて、諦めずに機能回復訓練に勤しむ日々です。

昏睡状態から意識がはっきりしてきて改めて想ったことは、他人に迷惑をかけて愚行を重ねながらもなんだかんだ自分はこれまで生かされてきたのだ…ということでした。そしてこれからも確実に異なる境遇で生きる…ということを想定して「読み・書き(入力)・話し・これらに関してだけはスローでもよいから何が何でも肉体機能を取り戻そう!」と決意しました。

昨年の今頃は、まだほとんど何も認識できないメチャクチャの視界で文庫本を眼前10センチ位まで近付けて読んでいたのですが、指の感覚もほぼないため、ページをめくるのも至難の業でした。発声で舌と口を動かす辛い訓練も楽しみになるほど連日積極的に取り組み、歩くための訓練の何倍もの時間をそれらに費やしたので、リハビリ病院に入院中のひと月はあっと言う間でした。

「やっと歩けるようになったかどうか?この状況で退院するのはあまりにも危険。あと3ヶ月は入院すべき」との医療常識を医師は私に語りましたが、私は周りの様子を観ていて「頭脳訓練に限ってなら、ここにそんなに長居していたのでは自分の目指すレベルには決して達しない」と判断して強行的に退院(笑)。

原則そこからは毎日、痛くてしびれる身体に鞭打って1~2時間は散歩を中心とした訓練、7~8時間は書物やPCに向かっていました。その甲斐あって、今では長時間読書も話すことも人並みにできます。歩きも一見は普通の人のように重心移動がスムーズになりました。

「歩行中に向こうから近寄ってくる人や車の数が早目に認識できるだけで、こんなに嬉しいものなのか!」ここ一年は遠くになるほど常に錯乱状態だった視界が最近急激に明瞭になってきて、日課の散歩が感動の連続…という私の近況です。人間のあらゆる機能は元々本当に凄いのです。乗物やコンピューターなどの工業製品について熱く語る前に、人間という存在について、誰もがもっと意識を注ぐことが大切だと思います。当たり前の事には何も感じなくなってしまうのが人の常なのです。

何事も失ってから気付く、というのが現代人の定番です。大抵が元通りにはなりませんが、元通りにはできないことに失った意義がある場合も多いのです。私は一度にあまりにも多くのものを失ったため、取り戻すと言うよりも全てを作り直すのに近い感覚です。つまり今は、何から何までがまるで創作の悦びであり、他人からしたら些細な日常が、私にとっては感動の連続です。

もしも今、あなたが大きな悲しみや落胆に遭っているのなら、それは大きな喜びや達成が待っていることを意味します。この世界で感動を得るためには、そのような条件が材料としてどうしても必要なのです。それが物質次元ゲームの妙なのです。

タイプ別、人への接し方
2017年09月07日

タイプ別、人への接し方

相手の出方を窺ってから、その相手への態度を決める人が一定数います。いや、現代のほとんどの人がそうなのかもしれません。しかも、どんな相手に対してどんな態度に出るのかがタイプによって異なるため、それを見た自分がおもしろがるのか不快に感じるのか、自分の視点によって随分と生活の気分が変わってくるのです。

例えば頻繁に同じ店に通っていると、あらゆる対人哲学を有している店員(本人にとっては哲学などというものではなく、自覚のない単なる習慣や無関心の場合もあります)が自分に接客してくるわけですから私はついつい観察して楽しんでしまいます。そこで自分が「接客のあるべき論」を強く持っていると、店に最も嫌われるクレーマーとして自分が扱われてしまう可能性があるため(笑)それを楽しめないのならば人間観察などしない方がよいでしょう。

当たり障りのない無難な客として自分が店に出入りを続けていると、店員によって主に4種類のタイプがあるように私には捉えられます。それぞれをA・B・C・Dとしてみましょう。

A:よく来てくれる常連さんということだけで好意を持って接してくるタイプ。客が何を買う、買わない、好みがどうかなどとは無関係に、顔を見る頻度が高いほど好感を持って便宜を図ってくれるようになったりします。もちろん人柄やフィーリングが合うのか合わないのかで親しくなる度合いにも差が出てくるのは仕方ないでしょうが、基本的には会う毎に徐々に親しみが湧いてくるタイプ。最も多いように思います。

B:口には出さないまでも「また来たか…」という感じで特別な対応などは一切せず、むしろクレーマーにはならないおとなしい客だと判断すると、初回ではありえないような雑な対応をすることもあるタイプ。普段は無愛想な人が仕事の義務感から表情や態度を繕っている場合、こうなりやすいです。気遣いに欠けた態度は気を許した証拠(笑)なのかもしれません。

C:落とすお金の額で態度を豹変させるタイプ。常に高額な支払いを請求される業種では逆に少ないタイプですが、平均客単価の何倍何十倍の購入をするお客を厚遇して、常にケチっているお客を軽視するタイプ。企業(商売)の運営目的がまずは利潤の追求なのですから、当たり前と言えば当たり前。良くも悪くも、経済社会ルールに則っているプロ精神だとも言えます。

D:相手や周りの状況がどうであれ、常に言動が一定で誰に対する態度にも一貫性のあるタイプ。資本主義経済では最も少ないタイプでしょう。その堂々とした生き方が特殊分野で功を奏す場合もありますが、一般社会には特に若い時期の適応が難しくなるため、無理にでも歪めて順応させるケースも多いかと思われます。

これらはあくまでも私の経験上から捉える、ざっくりとしたタイプ分けです。どこにも当てはまらない人や複数のタイプがかぶっている人だって当然います。あなたの仕事が接客やサービス業でなくても、学生や主婦でも、なるほど!と思うところがありませんでしたか?

仕事でも恋愛でも家族関係でも、自分や相手が上述の中でもどのタイプなのか、どのブレンドなのかを把握しておくと、なにかと便利だと思います。少なくともこれらを押さえておくだけで、自分自身が落ち込んだり相手に腹を立てるような機会が減ってくる効能は確実にあります。

ただし、皆さんに誤解しないでいただきたいのは、仮に今の自分がどのタイプだったとしても、それらの性格の多くはこれまでの家庭や学校環境、社会経験の産物なのであって、「性格なのだから変えられない」というものではないということです。

相手を変えようとする試みは、それが何であれ、ほぼ失敗に終わります。しかし自分の特性をよく理解して自覚が芽生えたのなら、自分で自分を変えることは何歳からでも十分に可能です。私はその自覚を導くためのお客様自身の理解をサポートできるよう、納得度の高い説明を提供することを仕事としています。

 

規格外
2017年08月31日

規格外

今ではどうなのか知りませんが、私の小学生時代には負けず嫌いな子供がたくさんいました。では、どうして負けると悔しいと感じるようになるのでしょう。

よく思い返してみるとクラスでも一人っ子は珍しいほうでした。兄弟姉妹がいれば「○○ばっかりズルイ~」みたいな感情が元で言い合いになったりと、物心つく頃から自分と誰かとを比較する機会が日常に溢れているのが一般的だったからでしょう。親や先生から褒められたり認められるときも、決まって何らかの外部基準や他人との比較で「同じようにできている・落ちこぼれてはいない」ことが理由である場合がほとんどです。

他人との比較が意味を成さないような独創性を肯定して子を育む親や教師などは原則いなかったわけです。その子の適性や特異な才能を誰かに見出してもらえたのなら、かなりラッキーでしょう。英才教育という言葉は前からありましたが、残念ながら親の都合で子供をより強くコントロールするパターンが多かったように思います。

結果として、スペックにこそ差があっても規格製品のような人間が量産され、まるで生産ラインから出荷されるがごとくほとんどの学生が卒業すれば企業や役所に就職するのが当然でした。それが軍隊でなくなっただけでも進歩なのでしょうが、労働生活を長年続けた末にその苦しさや理不尽さから病む人々が多い中、病んでしまう前に勇気を出して声を上げたり人生進路を変更する人たちだってあちこちにいます。

でもこれら人生の選択は、実のところ「他人より飛び抜けて優秀(個性的)でありたい」というような欲求に基づいているわけではなく、むしろ反対の「皆と同じカテゴリに収まりたい、規格外の扱いを受けたくない」という強い無個性の欲求からきていると私には感じられるのです。

人によっては幼児の頃から深く気にも留めずに口にしている言葉「ズルイ」とは「それじゃ悪平等にならない・例外が認められている」というようなニュアンスなのかもしれません。どんなに馬鹿らしくても、くだらなくても、不条理でも、辛くても、そのことに全く興味がなかった場合でも、大勢の皆と同じであることを最優先する人間の生態は、未だに私にとっての大きな謎です。(笑)

しかし、そうではない人たちが増えてきています。他の多くの人がどうであれ、独自の感性や能力や考え方で発言をしたり行動したりする人、大きな組織への所属欲求のない人たちです。同時に物的所有欲求も淡い傾向にありますが、個人や少数派となればもちろん何事も責任は自分自身が負わなくてはならないわけですから、組織ではありがちな看板依存や責任転嫁の発想を持たない人物である可能性が高いのです。

そんな人たちには、必ずと言ってよいほど「ひきこもり」期間があります。既存のレールに乗っかっていては進めない人生を歩むのだから、物質的なこと以外にも準備が要るのは当然のことです。そのような人たちの存在比率が上がることに伴って、人間社会も徐々に変革して行くのです。

常に情報操作されているからには表面化することも少ないでしょうが、これは既にかなり進行している現象だと私は捉えています。

毎日が初体験
2017年08月21日

毎日が初体験

普段の生活の中で「人生初の○○!」なんて言葉を聞くと、よほど特別な事でもあったのかと思ってしまうものです。「でもそれは違う」と私は思います。見逃していて気付けないだけで、誰にとっても毎日が人生初の物事で溢れ返っているのです。

仮にあなたという人間の容器(肉体)の中身(霊魂)が入れ替わったとしたら「毎日が同じ事の繰り返しでウンザリだ…」と思って気にも留めていなかった事柄が「なんて変化の可能性に富んでいて刺激的なんだ!」と感じることでしょう。

「新鮮」とは「慣れ・飽き」があるからこそ感じられるものだと多くの人が考えがちですが、慣れや飽きとは、自らが改善や発見を放棄することから芽生える現象なのです。他人からは全く同じことの繰り返しに見えても、本人は毎回とても新鮮な気づきを得ているのかもしれないのです。

そんな中でも象徴的な変化を迎える時というものが確かにあって、その部分だけを切り取って大きな変化が生まれたように認識してしまうのが人の常なのです。もちろん好奇心も向上心もなく惰性で暮らしているだけの人には、そんな節目が訪れようもありません。許されているのならそのようにして生きるのも個人の自由ですから、それをとやかく言うのも大きなお世話でしょう。ただ、日々を新鮮な気持ちで送り、定期的に達成感を伴うような変化を人生で味わいたければ、今している事を常に楽しめるような創意工夫を心がければよいのです。

息子が誕生した同日に倒れ、後日に意識が戻った初期の頃に私が思ったこと、それは「脳幹損傷までしても死ねなかったのか… 以後もしばらくこの肉体で生きるとするならば、全身が痛くてしびれて尿意便意も全く感じず、眼もほとんど見えず、まともに喋ることも起き上がって立つこともできないこの身体を、息子が歩く頃までには普通に話したり歩いたりできるところまでは機能回復させよう!」と決めました。

何とか歩けるようになってからは、室内での単独リハビリとは別に、糞尿漏らしリスクを考慮しながら独り毎日1~2時間はノソノソ歩き続けてきました。そして倒れて約一年後の今日、ついに息子と二人きりでの公園散歩が実現したのです。

ここまでには「パンツを汚さずに帰ってこれた。一度も倒れずに歩けた。片足で5秒も立っていられた。階段を少し昇れた。少し降りれた。転ばずに振り向くことができた」…等々の些細な達成の喜びがずっと積み重なっていたわけで、それらは見ている人には判らないことなのです。自分が崩れたり倒れたりのリスクが一定以下になったから、今日初めて子連れ外出にトライしたというだけのことです。

この経験から私が皆さんに伝えられることは「どんなに些細な事でも大切に積み重ねて行けば、達成の喜びはずっと続く」ということ。そこには他人の視線や思惑など、全く関係がありません。

 

醜さの理由
2017年08月18日

醜さの理由

私は人間の欲求というものについて10歳頃から何かと不思議に感じ、自分のできる範囲で色々と検証してきました。大人になって皆さんが知る有名な話で「まずは生理的欲求を充たしてから…」ということは、おおよそ子供にでも体感からわかることです。

どんなに物事に夢中になったとはいえ「丸三日何も食べていないことに気付いた」とか「便意を催したが50時間は我慢できた」とか「溜め込んだ宿題を済ませるまで100時間以上睡眠をとらなかった」などという子供はいないわけです。幸い私は極寒や空腹に耐えなければならない家庭環境ではなかったため、贅沢な話それがどんなものかを知りたくなったのです。

そこで自分の生理的欲求の実験調査です。どこまで眠らないでいられるかを試そうとがんばって起きていても、いつの間にか眠っていて気付けば朝!何度チャレンジしてもこれは同じでした。

排泄も、トイレで用をたしてから「そういえば!」と思い出すくらい当たり前に身体が動いてしまいます(笑)。

空腹は多少制御できました。ボクシングのマンガに影響され「ハングリー精神を養う」などと小学生にとって無意味でアホなことを公言して、数日間飲み物だけで過ごしたことがありました。後で思えば学校の先生には「子供なのにいったいどんな給食も喉を通らないほどの悩みがあるのだ?」と勘ぐられるのも当然で、誰も居ない部屋に呼び出されて「忍耐力を鍛えている」などと釈明する私に怪訝な表情をしていた先生の顔が忘れられません。

暑さ寒さは慣れてしまえば最もなんとかなったように思います。単純に、子供は大人に比べて生命力が強いというだけのことかもしれませんが…(笑)

話を戻しますと「人間は生理的欲求を充たすことが第一だ」の部分については皆さん異論がないでしょう。実は例外もあるのですが、ここでは「肉体を持つからには原則そうである」とさせてもらいます。それから順次続くとされる「安全・社会所属・評価・自己実現などの欲求は、人によってまちまちである」というのが私の見解ですが、今回の話の趣旨はそこではないため割愛します。

私の言いたいことは「どんな人でも原則、生理的欲求を阻害されると醜さ満点の反応をしやすい」ということです。本能欲求に忠実に生きている人ほどそうなりやすいわけですが、わかりやすく言うと「間接的にでも食欲や性欲や睡眠欲を邪魔する行為には容赦ない」みたいなことです。

動物としての側面を持つのが肉体をまとった人間ですから、その方の普段の人柄がどうであろうとも、そこで急変してしまうのが悲しくも多くの肉体人間なのです。それが今の社会のしくみですとお金を使って欲求を充たすことがほとんどですから、稼ぎに響く勝敗や出世などが絡む場合に動物的本性がむき出しとなりやすいのですね。

複数の動物が同じ獲物を咥えて引っ張り合っている姿が、経済競争の名の下に顧客獲得合戦をしている人間の姿とまんま重なるのです。現実は綺麗ごとでは済まされない、獲物をゲットできなければ動物も人間も生きて行けなくて当然だというわけです。

動物だけれども他の動物よりも複雑な手段を使って生理的欲求を充たし、歪みをとことん溜め続けるているのが人間でしょう。少なくともほぼ全員がそれを容認して参画しているから、維持できている人間社会のしくみです。そんな獣のような人間の行いを見ていると、私は醜さを感じずにはいられないのです。

そんなヤワなことを感じていたのでは、この世界では弱者で終わって当然… 実際、とんでもなく醜悪な人間が大手をふって活躍してきた歴史があります。でもそれは物質面での話です。人間と他の生物とでは非物質面に著しい違いがあるのです。

肉体生命維持のためならなりふり構わず必ず何でもするという醜い人間ばかりではありません。必然的に無名となってしまうわけですが、いつでもどこでも美しい生き方をしている人間だって存在しています。

人間の非物質側面に皆が気付けば、物質人間社会だって大きく変容せざるを得ないと思うのです。