お知らせ

誕生日
2018年11月12日

誕生日

成人してからの私は自分の誕生日を気にしたことがありません。当日中に気付いた場合には「あぁ、私はまだ肉体で生きているんだ」とは思いました。

 

当然の話、誰にだって誕生日と命日はあります。「そんな当たり前の事に振り回されていったいどうする!」というのが今でも本音です。

 

「息子の誕生日、よりによって父親の命日と同日にしてやりたくはない!」意識不明となっても私はそこを意識していたようです。息子の誕生日を2回祝った時、どちらも自分の命日を祝った実感があったのです。

 

死の床に伏してその瞬間を迎える際に「いい人生だった」と思うか、「もっとああすれば、これをしなければ」との想いが湧くのか… 短命だろうと長寿だろうとつまるところそこに人生が象徴されているのだと私は考えます。

 

「死にたくない」と強く思う人が多いとして、生きて何をしたいのかにもよりますが、不本意な人生だったと本人が総括していることだけは確実です。

 

気持ちよく他界するためには一日一日を一生のつもりで、目立つ必要はありませんが悔いの無い人生を送る。それ以外に方法はないのです。

 

そんな日々を送れているのかどうかに改めて注意を向けられる!それが誕生日の最大の意義である。 私はそう考えます。

 

食に関する所感
2018年11月06日

食に関する所感

息子はフルーツが主食です。朝はフルーツだけ、夜もまずはフルーツ、昼は給食で皆と同じですが息子は豆が大好きなので牛乳でなく豆乳にしてもらってます。でも帰ってきて給食について言葉にするのは「ぶどう・りんご・なし・かき」とかの果物名ばかり(笑)。

 

肉は大抵吐き出してしまいます。野菜タップリの餃子なら食べます。親の指針や食性とは無関係です。本人が食べたがって喜ぶのが果物だというだけです。あとは納豆・豆腐・味噌汁が好きです。

 

私も近年歳のせいか肉は欲しません。食べても大抵体調不良で後悔します。でも料理のダシを取るのが魚肉なしでは厳しいと感じます。

 

魚肉食を悪く言う人が結構いますが、植物だって生物を殺して食していることには変わらないので何でもいいと私は考えます。成人後は基本身体を作る必要がないわけですから、ずっと若い頃と同じ食生活というのはおかしいとは思います。

 

私が重要視しているのは「摂取しない方が良いものは確かに沢山ある」ということです。

 

同じ地球上でも「一生肉だけ」「野菜だけ」「ほぼ穀物だけ」「ほぼ果物だけ」「昆虫メイン」…地域によって人種によって昔から色々あるのです。だから「これが良い」「これはダメ」とか言うのは宗教と同じだと思っています。

 

今の日本は医療や食に関してほぼ皆がカルト宗教信者みたいなものです!笑

 

果物をドレッシングや調味料なしで食していれば確かに堅いですね。人の手にかかった農作物ですから言えばきりがないですが、それは食物でなくても空気でも水でも手に触れる食物以外の何でも同じことです。神経症みたいになれば「生きていない方が良い」って結論しかなくなります!笑

 

身体が欲しているのを感じる・身体が拒んでいることに気付く・これが最も重要かと思います。

 

深い想い
2018年11月04日

深い想い

私が倒れて意識不明になってから意識が戻って程なく、私と入れ替わりで誕生した息子に病室で接触しました。眼も見えないし手足も動かないし思考もボンヤリでしたから記憶にはほぼありません。とにかく全身が猛烈な痛さで辛いことは自覚できていて「しまった!死に損ねた」という想いだけは強くありました。妻の話では、わたしが奇声を発して嗚咽していたそうです。

 

なぜかその時、私がどこかの次元の思考で決めたことがありました。膨大な臨死体験記憶を整理しながらその隙間でちょっと考えただけなのですが「全身が動かないのでは自殺のしようもない。視えないコイツもまだ何の生物かもわからない。生きていることがどんなに辛く厳しくても、せっかくこの世に出てきたコイツの人間らしいところを自分がこの世で見届けられるまで生きてみよう!」そう自分に誓ったのです。

 

必然的に私の目標は定まります。一生身体が不自由なのは当然。でも「視える・話せる・歩ける」くらいは自分の意志次第だろう。明日には死ぬかもしれないのは誰だって元々同じです。

 

 

今日の午前、私がいつも通り数時間リハビリに出て帰ってくると「おかえり~」という妻の声に続いて息子が「カズ~待ってたよぉ」と言ったのです。

 

「ただいま」「おかえり」等の単語は0歳から発していましたが、大人でも発しそうな言葉をちゃんと聞いたのは2歳2ヶ月の今日が初めてでした。それで思い出したのです。

 

痛み苦しみに耐えてリハビリを続けてきた今の私は結構普通に話して、まあまあ視えて、ノロノロですが歩けます。空いているバスや電車で座ってなら移動もできます。そして今では息子の方が身体能力は断然高くて言葉も発しているのです。

 

最初に前提条件として勝手に決めてしまっていますから2年経って気付けばそうなっているわけです。それを世間の常識に照らし合わせて医師の言うことを聞き入れていたらこうはなってないでしょう。

 

表層意識はさておき、誰に言わずとも深いところで誓ったことは叶えてしまうのが人間なのです。その反対のことも常に深いところの思いが叶った結果なのです。

 

レンタマン?
2018年10月24日

レンタマン?

少し困ったことに、私の身体は2年前の意識不明状態に陥ってからというもの憑依体質になってしまいました。死人が私の身体を使いたがるという意味です。

 

元々、私は人間の生死に特別な関心があったわけですが、肉体死は迎えたけれど完全に非物質化していない人の影響をあからさまに受けると不都合しかない、という認識でしたので、できるだけ幽霊系を察知しないように努めてはいたのですが、やはり今回の私のように肉体エゴを捨てて身体から出てしまうところまでやると、制御不能になってしまう部分もあるようです。

 

この世にウラミツラミのある不成仏霊ではないだけありがたいのですが、この物質世界を変貌させたい欲求がある方からのアクセスが多いようです。

 

肉体意識での自覚はないとしても、非物質的な合意がなければ起きない事かと思われます。

 

倒れる前にはこの身体には入っていなかったエネルギーが介入してくる私の特徴としては、全身が痺れて上手く動かなくなる、しっかり寝ていても異常に眠くなる、喋りや動きが入って来た方の生前に似てくる…などがありますが、最も判りやすいのは食性の変化です。

 

退院後1年間程、とある方にどっしり居すわられたのですが、その方は生前大食いの甘党で有名な方だったので、私ほとんど身体を動かせなくなったくせに、私が意識不明になる前は無関心だったシュークリームやらロールケーキやらを毎食後に自分で買いに出てまで口にしていて、内情を理解している妻も協力的に買ってきてくれるようになり、半年で20キロも太りました。

 

やはり、食べることは肉体がないとできないことですからね(笑)。一時、私の身体を提供してあげたわけです。ところが最近、急に甘いものに興味がなくなってきたから「納得されて退出したのかな?」と思ったわけです。

 

同時に不慣れなエネルギーのアクセスを感じているので、「新しいお客さんか!?…もう入室拒否にしちゃおうかなぁ」ってところなのですが、鍵を閉めていてもこじ開けようとしている感じで、不快でもないのです。

 

仮に病院に行っても事情を理解できる医師はいないでしょうし、宗教はもっと関わりたくないしなぁ…笑

生きにくさは生きる動機になる
2018年10月23日

生きにくさは生きる動機になる

私は小学生までは割と調子づいた、友人の多い子供でしたが、中学頃から人間社会に幻滅して高校頃には大の人間嫌いになっていました。大人になってからは人と居て楽しかった事はほとんどありません。(楽しいフリをすることはありました)

 

孤独に過ごせば楽しかったり嬉しかったりする事もありましたが、人と関わると決まって寂しさや虚しさやバカらしさを感じるため、成人以降はできるだけ一人で過ごしていました。それでも協調性完全ゼロでもなかったので、所得を得るために無理して勤めたり親の手前結婚したりもしました。

 

私は7年前に倒れて死ぬかもしれない状況に陥り、2年前の息子が誕生した日にも別の要因で倒れて臨死体験しました。医師の誰もが「これは死亡するだろう」と踏んでいたのに生き続けてしまったのです。

 

小脳を損傷して植物状態となって、肉体意識が戻ってから「これ以上の拷問はないであろう」という程の全身の痛みと苦しみに耐えてリハビリに精進し、今では食べたり話したり、ゆっくりなら歩くこともできる状態です。痛みやしびれも大分緩和されています。

 

ここからが本題ですが、今は2歳になった息子を私は避けていません。数十年ぶりに私が人間に好感を持っているのです。私の身体では正直1時間相手をするだけで猛烈な厳しさですが、リハビリだと思って割り切れば何時間でも乗り越えられるのです。原則保育園にベビーカーで迎えにも通っています。

 

ここ二年が私のこれまでの人生で最も辛かったにもかかわらず、最も生きようとする意志がありました。今でも長生きは望みませんが、若い頃ほど死ぬことが楽しみでもありません。もう肉体死は叶っているからでしょうか!笑

 

どんなに些細な事からでも喜びを感じることができるようになりました。

 

これまでに培った、そんな「逆境をものともせず上手に生きて行くコツ」みたいなものを皆さんにお伝えしています。

人それぞれの事情
2018年10月22日

人それぞれの事情

今、私の住んでいる賃貸物件は要介護者や小さな子供に優しいバリアフリー物件です。家の中に段差がないのはもちろん、バスルームやトイレにもしっかり手スリがついていて、団地敷地内に児童公園があるくらいです。

 

建物入口にも必ず階段とは別にスロープや手すりが付いていて車椅子の出入りも多く、私のように不自由な身体をしていても、重くなければ一人でゴミ出しに行けるくらいで大変助かっています。自分の住む棟にはエレベーターが二基あって、うち一基は車椅子OK手スリ仕様なので転んで大怪我をしなくて済んでいる大きな要因です。

 

はっきり言って割高な賃貸物件ですが、若い頃から死ぬことは楽しみにしていたものの、まさか自分が手スリがないだけで転んだり、転んでも受け身が取れないような身体に40代でなってしまうとは予想してなかったので、ありがたくも複雑な心境(笑)。

 

ところが住んでみて意外な障害が…

 

同じ棟の同じ階のエレベーター前だけが建物の構造上お一人様仕様の部屋らしく、私でも妻でも息子を連れてエレベーター前まで行くと、若い入居男性が留守でない限りわざわざ中から出てきて陰険な顔をして「静かにしてください」と言いに来るのです。

 

叫んだり大声を出しているのならわかりますが、せいぜい「エレベーター来た」とか小声で喋るくらいです。そもそも下の児童公園からはその何倍も大きい子供の声がいつもこだましているのです。私も妻も根に持たれるのがオチなので「スミマセン」くらいしか言わないようにしています。でも、その男のために息子の口に毎回ガムテープを貼るわけにもいきません。

 

周りの他の子連れ世帯と会話してみても「あの人怖い」と言っています。私は真剣に危険な予感がしたので管理事務所に相談しました。すると事務所側の返事は「家賃の滞納とかしてくれれば私達も動きようがあるのですが…」でした。

 

子供が嫌いなら、この辺にお一人様専用物件はいくらでもあるのに、何故わざわざ割高な家賃を払ってまでここに、しかもエレベーター前に住んでいるのでしょうか。謎が多すぎます!笑 

 

平日はワイシャツを着て定期的に出かけているようなので、どこかしらに雇用はされているようです。大きなお世話ですが、人柄は問われない職業だってありますからね(笑)。

 

例え入居審査に「子供は嫌いじゃないですか?」なんて記載がなくても、児童公園付きで敷地内に管理事務所まである賃貸物件での出来事です。

 

気にしても仕方がないので「快晴の天気予報を見て出かけたら一日中しとしと雨が降っていた」くらいのことでしょか!笑

 

本当に様々な人がいるものです。

 

出来る事としては「他人のフリ見て我がフリ直せ」だけですね!笑

本来の自分らしさ
2018年10月21日

本来の自分らしさ

よく、「自分らしく」とか「本来の自分の姿」等の謳い文句を見かけますが、私はその度に思うことがあります。

 

商売上のキャッチコピーなのだとわかってはいても、それを読んだ人の中には「今のこれは本来の自分の姿ではない」とか「私ももっと自分らしく生きなきゃ」とか思ったりする人も実際にいるんだろうなぁ、ということです。

 

他人の営業妨害が目的でこれを書いているのではありませんが(笑)人は誰でもこれまでに積み重ねてきたものや手放してきたものの結果として今があるわけで、大凡いつでもその人の実力が出ているものです。

 

テストの一夜漬けみたいなことで取り繕える部分も多少はありますが、ランダムな話をしたり一定期間のお付き合いがあれば、その人の教養、センス、価値観などの人柄や人間性は、いずればれてしまうものです。

 

ですから私が最も重要だと思うことは、何をしてどんな状態にあっても「これが私の今の実力なのだ」と肯定することなのだと思います。

 

どんなに不本意で情けない結果を招いても、そこから目を逸らしたり誤魔化したり言い訳をしている時点で、それが「本来のその人らしさ」なのです!笑

 

今までの人生、どういう考え方で何をしてきましたでしょうか。その結果が今のアナタです。人は大凡、常に本来の自分らしい結果を出しています。

 

その自分らしさ(実力)も、常に変化しているということなのです。

 

思い通りにならない幸せ
2018年10月18日

思い通りにならない幸せ

何でも思い通りになる人はそんなにいるものではありませんが、色んな事が思い通りに行かなくて悔しかったり切ない思いに浸っている人はいつでもどこでもとても多いわけです。

 

しかし結論から先に述べますと、思い通りにならない経験をしていた時期があるからこそ思いが叶っている状態に喜びを感じるわけです。これは負け惜しみでも慰めの言葉でもなんでもありません。この物質世界に肉体で生まれてくる最大の意義を見出せるところです。

 

想いが全ての非物質世界にいたのでは、体験を通して理解する、楽しむということは不可能なのです。ですから皆さんわざわざ不便な世界に肉体という物質に宿ってまで、何でもすぐには思い通りにはならない経験を積んでいるのです。

 

何でも思い通りになってしまったらそこに喜びはありませんし、そもそも何をしにこの物質世界に出てきたのか?という話なのです。でも実際には「どうして生きているのかがわからない」という人が圧倒的に多数で、一定の年齢からはそれを考えることも止めて動物かマシンのように惰性だけで生きているのです。その惰性もつけられなくて死んで行く人も多いのが実態です。(表面上は病死だったりします)

 

 そのような内容を語っているだけでは闇をまき散らす宗教となってしまうのがオチなので(笑)私は異次元を普通に認識できている妻と共に皆さんにそのことを自ら実体験しながら認識してもらう試みを続けています。

 

何も特別なことではありませんし、怖がる必要もありません。

 

 

多次元の自己
2018年10月11日

多次元の自己

同日の前の記事の続きです。

「乳幼児期は基本的に大人の認識している世界とは別の次元に存在している」という話でした。

 

私がそう考える根拠は「1~2歳頃のこの世界の記憶だけが欠落している」と前述しましたが、実はもう一つ根拠があります。

 

それは3歳頃から、元いた世界にわざわざ夜な夜な出向く必要が出てきたからです。その過渡期の記憶は曖昧なところがありますが、幼稚園に通う頃からのこの世界の記憶は今と変わらない鮮明さとなったのです。

 

つまり、自分の意識が基本的にこちらの世界に属するようになってしまったのです。しかし私の場合そのまま数年は自発的な儀式のように毎晩あちらの世界に戻っていたかと思われます。それはこの世界には「夢の記憶」として持ち込まれるというわけです。

 

この私の経験と実績を活かして数十年後となった現在取り組んでいるのが、異次元を認識できる妻と共同で行っている「グループセッション」です。

 

偏って凝り固まってしまっているこの世界だけのアナタではなくて、もっと普遍的なアナタを認識してもらうためのセッションです。

別世界の認識
2018年10月11日

別世界の認識

私は異次元世界での人間の活動の様子をビジョンで見ることがよくありましたが、何故かその世界ではどこにも小さな子供が存在していたことがありません。

 

私は子供の頃に記憶力が強かった故、塾に通ってもいないのに気付いたら高校は進学校に在籍していて(そんな意志はなかったという意味です)前途多難な十代後半を迎えてしまいました。大学には進学したくないし、かといって就きたい職業もなかったからです。

 

そんな調子で「気付いたら大学生になっていた」「気付いたらここの社員になっていた」というような人生を極度に怖れていたというのもあります。

 

しかし記憶力が強いはずの自分に1~2歳頃の記憶が全くないことを不思議に思っていました。若い頃の私は、その事を「乳幼児の存在とは、大人には存在しているように感じられるだけで、大人と同じ世界には存在していない」と結論付けました。脳の発達と記憶とは無関係だと私は考えているからです。

 

実際に自分にも子供ができてそこをじっくり検証できるはずだったのですが、息子の誕生日に自分が意識不明の重体となってしまい、思考や発言が人並みになっているのかが怪しい今では(笑)私なりにじっくり息子を観察してきたつもりでも、世間一般のそれとは大きく隔たりがあるでしょう。

 

だから妄想だと思われても構いませんが、やはり大人と乳幼児が認識している世界は別物であると感じます。

 

ただ子供は、本質ではありませんが、大人の認識している物質世界に物質として存在しているかのようにも見せています。その実、大人とは別の非物質世界にも存在しています。

 

ガチガチの物質世界だけを本質だと思っている大人からしたら「非物質世界」である、という意味です。

あくまでも認識して受け容れている波動世界との相対的な別世界です。ですから、非物質世界を当然の事として認識できている場合でも、相対的な別世界は多層的にずっと存在します。

 

つまり、多層だけど多重でもあるのです。現代の先進国に住む人々には、それぞれの世界に意識をフォーカスする訓練が欠落しているのです。

 

それにしても、自分が認識できなければ「ない」としてしまうのは、あまりにも傲慢で稚拙な態度ですよね!笑

 

体験して認識しましょう。