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期限の自主設定
2018年04月15日

期限の自主設定

社会人でしたら「自分の与える印象次第で、社の売り上げや自分の報酬が左右される」…それは仕方ないとしても、まだそんな状況でもない学生でさえ、周りの皆や親にまで好印象を与えるよう努めている人が多い、それが今の世の中です。

 

それは、逆に捉えるなら「一般的に深い関係だと自分では思っていても、長年どっぷりかかわってみなければ相手の人柄云々は語りようがない」ということです。

 

それでも原則はあります。「人間(自分)は、いわゆる悪い事、ずるい事、ひどい事をしてしまいがちだ」と考える人は、自分が「いい人だ」と思われることに比重を置いて暮らしています。つまり「素の自分では人に嫌われてしまう」と考えているのです。

ですから、凶悪事件が起きて周辺住民にインタビューすると「きちんと挨拶もできて普通の印象だった」みたいな声が決まって上がるのです。

 

自分にそのような罪悪感というかコンプレックスがない人ほど、自分に対する他人の評価や印象を気にも留めないで、やりたい事に熱中したりします。

すると「失礼なことでも平気で言う」「損な性格をしている」などと陰で囁かれたりするのです。でも実際は普段どんな人が相手でも、愛情いっぱいで接していたりするのです。

 

上述はもちろん極端な例でして、「人柄がよさそうな相手には気をつけろ!」とか「無愛想なら確実に人柄がよい」と言いたいわけではありません(笑)。何にだって例外はあります。

 

では、セイジョウ石井は何が言いたいのか?

それは「重要な物事とは気長に接する心構えが大切だ」ということです。

私が感じるのは、現代の皆さんは何かとイジョウに結論を急いでいるのです。

 

「諦め」「失敗」「未達」「挫折」等で表される結果は、全てが期限設定の問題であると思うのです。淡々とコツコツ重ねれば数十年で達成できることでも、途中で期限をきめて切れば全てが失敗という扱いとなります。

 

勉強でもスポーツでも金儲けでも、競うことが目的のゲームなら時間を設定しなければゲームにはなりません。それで言えば人生そのものだって、肉体だけで考えれば「死」を迎えるまでの究極の時間設定ゲームでしょう。

 

「人は非物質だから肉体死は実は大した問題ではない」という趣旨をお伝えしたくてあれこれ書いている一連のここのお知らせですが、仮に「肉体死が全ての終わりである」と定義している人からしてみても、肉体人生は平均で80年以上あるのです。

その間に何を成し遂げたいのかは人それぞれですし、人生の時期によって目指す方向があれこれ変わって行くのも、これまた万人共通でしょう。

しかし人生の本質的な事で「数年以内に結果を出す必要がある」なんて事はおそらく滅多にないし、それは「急がなければならない」という環境からの刷り込みによる勝手な思い込みなのであって、実は大したことではないテーマだ、という場合がほとんどなのだと私は考えます。

 

誰にしてみても周りからの影響でそう考えるようになったのでしょうが、結論は本人が期限設定を決めているのです。何をしても多くは失敗に終わるような設定をしているというわけです。

 

実は、「焦り」が本領発揮の大きな阻害要因となります。「常に当たり前にしていることが、焦った途端に上手くできなくなった」…そんな経験に皆さんも覚えがありませんか?

 

一生焦っていては、どれもこれも本領発揮できないまま肉体人生の幕を閉じることとなります。そして皮肉にも、そうなる見込みが濃厚と判断したある時期から、今度は焦って肉体死に向かう人が多いのです。

それが自殺という形を採ることは少なく、病死がほとんどです。「どうせもう自分なんか生きていたって…」そのような想いが病を創出して、物質実現化しているのです。

 

ですから私セイジョウ石井は「もっと大きく広い視野で人生を捉えましょう」と強く提唱しているのです。

ヒマが怖い理由
2018年04月12日

ヒマが怖い理由

常日頃から「忙しい、忙しい」と言っていて、それでいてせっかく予定が空いている日があると、それだけで不安になって何でもいいから予定を入れてしまう人、けっこういらっしゃるみたいですね。

予定に穴が開くことの、何がいったい不安なのでしょう。

それは自分自身と対峙することが怖いのです。つまり人生について考えることから逃げているのです。

 

予定に追われて忙殺されていれば、目の前のスケジュールをこなすことだけで日々が過ぎて行きます。そして結果的に、頭も身体も自由がきかなくなる肉体死を迎える間際になって、はじめてあれこれまとめて直面させられることとなるのです。

 

しかし、そもそもそのようなタイプの人はずっと「死」をタブー視しているので、健康な間はそんなこと考えたくもないし気付きたくもないのです。

 

セイジョウ石井は、常に肉体死を怖れている人に対して「人生では常に病や死を想定して生きろ!」と言いたいわけではありません。私は保険会社や葬儀会社や医者や銀行や会計事務所のマワシモノではありませんから(笑)。

 

「肉体死とはどういうことなのか」を全く知らないまま無闇に死を避けていること自体がイジョウで、そんな態度こそが「死」に対する恐怖を自ら増幅させているのですよ! ということを述べているのです。

 

皆さん小さい頃にお化け屋敷に入ったことがおそらくあるでしょう。明るい会場で準備をしている様子を見ていたなら、多くの場合は粗末な材料で作ったセットの中で、オッサンがお化けのフリをして飛びかかる練習をしている…だいたいそんなマヌケなものです。

 

それが「真っ暗で、どこに何があって、いつ飛び出してくるのかもわからない!」という理由で、絶叫したり、腰を抜かしたり、入口に入ることすらできない人が出てくるのです。

 

ですから私には、肉体死を必要以上に怖れている人たちが「刺激的なアトラクションとして人生をスリル満点に楽しみたい人々」にも映るため、「肉体死を怖れることは、こんなにマヌケなことなんですよぉ」なんて具合に勝手に種明かしをして、その人の楽しみを奪ってしまうのもいかがなものか?

…そんな葛藤も実は常にあるのです(笑)。

記憶のありか
2018年04月08日

記憶のありか

今日、1歳半の息子を連れて妻と近所の公園に行き、子供用電動(バッテリー)列車に乗りました。ミニ車両なので扉がなくて跨いで車両に乗り込む他ないため、今の私には文字通りハードルが高く(笑)今まで見送っていたのですが、体調も陽気もよい本日、初めてチャレンジしたのです。

 

息子の横で一緒に揺られていると、私が1~2歳頃の、記憶にないはずのビジョンがあれこれ蘇ってきました。

 

既に他界している私の父は、自身が末っ子として生まれた直後に母親を亡くしており、5人いた兄も皆腹違いで冷遇されていたが唯一、歳の離れた姉が母代りとなって育てられたため「子供(私)が生まれたことを大変喜んでいた」と、同じく他界している母から、私が若い頃に聞かされたことがありました。

 

そんなことを思い巡らせていると、1~2歳の自分が父の横で遊園地の乗り物に乗って騒いでいる場面がフラッシュバックしたのです。

 

「記憶とは脳の機能である」となっている現代で主流の考え方は、人間をまさに機械として見ているからそのような発想になるのです。だとしたら、PCのハードディスクやCPUがどうのこうの… 機械の性能ばかりがフォーカスされるのです。

 

確かに従来の受験などで必要とされる暗記力は左脳スペックに大きく依存しています。ところが動画や音楽など情報量が多い場合、異次元に存在しているデータベースに右脳でアクセスするのが人間本来のやり方なのです。

 

今では一部学習塾でも取り入れられているくらいの右脳活用法ですが、対象は児童ですし、相変わらず受験のためだけにそれが活かされているのです。

 

私が毎回イベントで皆さんに体験してもらうのが、実は受験のためではない大人対象の右脳開発なのです。異次元の自分自身へのアクセス方法のコツを解説しているのです。

 

異次元の非物質界は「空間」ですらありません。そこに長短や大小の概念はないのです。

 

そして更には「時間」の概念もありません。この物質世界では数千年前の出来事や数十年後の事でも、今として認識されます。

 

ですから「いつどこでの体験なのかもわからない、たった今さっきの経験が、実は過去や未来の自分であった」ということが普通に起こるのです。

まずは視野を拡げましょう
2018年04月06日

まずは視野を拡げましょう

子供は何事にも没頭します。その反面すぐに興味対象が移ります。

大人だって同様に、常に今を生きているのが自然なのです。

 

大人になると多くの人は労働をします。仮に興味がなかろうが、やりたくなかろうが、継続を求められるのが労働というものです。

 

利潤追求だけが目的の組織からしてみたら「この時点ではまだ機械じゃ間に合わない(未開発)」あるいは「機械を購入するよりも人件費の方が安くあがる」と判断した上で、その人の『仕様(スペック)』を見極めて採用しているのです。

 

「興味がなくなった」「他の事をすることにした」等の理由で辞職されては「無理してでも高額マシンにしておけばよかった」となるわけです…マシンならばしばらくは修理交換保証がありますからね(笑)。

 

こんな具合で、実質マシンとしての適性を養いながら耐性をチェックするためのものが受験システムです。つまり、企業や役所は人間らしくなくてももっぱらオーダーに忠実な人材を求めているのです。

 

だから不祥事とされるような物事が発覚したときに、その人間性を問う事はナンセンスだと思うのです。順序が逆なのです。人間らしさの多くを欠落させることに成功したからこそ、そこのポジションにつけている人たちなのです。

 

そのことに気付かない人が世の中には意外と沢山いることの方が、セイジョウ石井には驚きです。

 

皆さん一人ひとりが意識を変えることでしか、社会システムを変える方法はありません。

 

システム上層部に乗っかっている誰かにそれを期待すること自体がかなりの矛盾であり、そうしている限り決して叶うことはないのです。

 

そして、一人ひとりの意識変革を穏やかに速やかに進めることです。大きな摩擦を起こすやり方では、支配層の思惑通りの結果を招くのです。

 

とにかく、まずは視野を拡げましょう。

チャネリング
2018年04月05日

チャネリング

今日はセイジョウ石井の「チャネリング」についての見解を述べます。

 

今となっては、世に出回っている「チャネリング情報」は実に膨大な量です。その質もピンキリでジャンルも多岐にわたります。

テレビが希少な時代に街頭で流れる番組を群がって見ていた人々は、その内容を吟味したり真偽をはかったりはしなかったでしょう。ただ単に見て驚いて喜んで楽しんでいたのだと思います。

 

これをチャネリングに喩えると、チャネラーが希少な時代は、もの珍しさだけでもその現象に飛び付く人がいるということです。日本では昔から東北で「イタコ」沖縄で「ユタ」、広くは巫女と呼ばれるような人々のことですね。

 

しかしテクノロジーの進化で受信の精度は上がり、発信局も増え、ケーブルや衛星放送においては「アニメ専門」「時代劇専門」「エロ専門」「ギャンブル専門」など、まさに呆れるチャンネル数であり、それもネットPCだけじゃなく、移動中にでもスマホで皆が何でも選べる今となっては、むしろシャットアウトの術の方が大切なくらいです。

 

その内容について一律に優劣を語るのは、もはや古い人だけ。一見同じように見える人同士でも趣味嗜好では細かく分類されてしまっています。そしてそこに関してはチャネリングも「ご多分に漏れず」です。

 

白い羽の天使系の名や宇宙人の名を語る者には根強い人気傾向があるため、黒いグループも白っぽい名を語って物質世界を操ろうと、激しい顧客争奪戦となっています(笑)。

 

チャネラーも読者も随分と翻弄されているようですが、それも物質世界で肉体を持って基本は盲目に生きているゲームの醍醐味ですから、私はどうこうしようとは少しも思いません。

 

雨後の竹の子のごとく出てくるチャネリング情報のなかでも、バシャールのそれはなぜ未だに皆にシックリくるのか?

1980代後半からあれこれと読み比べて(その頃は書籍しかありません)石井が達した結論があって、今でもそれをモットーとしています。

 

それは「ほとんどのチャネリングは非物質存在に肉体を明け渡しているだけの憑依現象だ」ということです。

 

バシャールのチャネリングをしているダリルアンカの様子だって一見は同じようですが、割と早期から「私は未来の自分から過去の自分に情報提供している」旨を触れており、直線時間軸の縛りから解放された視点でみれば、単に「ある人物の発信する著作」でしかないのです。

 

そこが、巷に溢れている過去の著名人の名を語る憑依現象とは一線を画すところなのです。

 

私自身は、非物質の何者かに憑依されないよう常に細心の注意を払って肉体人生を送っています。ですから発信する文章でもイベントでも、読んだり聞いたりする人が結果的に他者に憑依されることのないよう対策を立てています。

 

ですからセイジョウ石井のイベントでも毎回、他者ではなくて「非物質の自分とのアクセス」を強調している次第です。俗に言われるおどろおどろしい霊現象とは無縁ですのでご安心ください。むしろ敏感な人でも憑依されないようコントロールできることを目指しているのです。

 

私が監修を手掛けて一昨年ヒカルランドから出版された「真名圭史著・非物質ガイドとの探索」シリーズ三部作にも、7人の非物質キャラクターが登場しますが、それらは全員、著者「真名圭史」氏のガイド(潜在意識)なのです。

著者であるペンネーム「真名圭史(まるの日圭)」氏のチャネリングスタイルに惚れ込んだ私が、自ら申し出て動いて出版を実現させてもらった本なのです。

 

チャネリング情報自体は非物質ですから「誰の著作なのか」は総じてそれほど重要ではないですが(ただ、いずれにしてもチャネラーの器以上の情報は降ろしようがないわけですから、チャネラーの教養や徳などの人格はチェック必須です)物質世界と非物質世界の関わりや仕組みについて、日常生活に根差した解説を試みた三部作です。

アマゾンキンドル読み放題にも含まれているようですから、電子版含めて読了された方とでしたら、もっと突っ込んだ話題にも入れます。

 

もし読まれたのでしたら遠慮なく是非ともコメントをください。できる範囲でお答えいたします。もちろんイベントでは更にじっくり解説しています。

 

新しい生活
2018年04月02日

新しい生活

今日から新生活が始まった方は多いでしょう。私の一歳半の息子も今日、保育園に初登園して大はしゃぎ、帰ってきてからもご機嫌です。

近況、進学・進級・就職・昇進・降格・配属移動・卒業・退社などが自分には何もなかったとしても、それらに関わる人が周りに一人もいないということはないわけです。視野を広げてみれば、自分の過去を思い出したり未来を想像したりして、やはり何らかの節目にはなっているのです。

息子の生まれた日に脳幹出血で倒れて呼吸以外は何もできなくなったその時の私は、まさに「死に損ない」の状態でした。

意識が戻ってもほとんど動けずベッドで横たわって全身がひたすら痛くて辛いだけの朦朧とした頭で「どうやらまだしばらくこんな肉体で生き続けることになってしまうらしい…」くらいの思いがすぐに湧きました。

 

しかし「どうせ生きるのなら」と覚悟を決め、かつてに近い身体機能を目指してリハビリに明け暮れて、常時襲いかかる全身の痺れや痛みに耐えてきました。

 

常に頭から離れない自殺願望にもめげず(身体が動かなければ自殺すらできない!爆)、その辛さに耐える最大のモチベーションが、今回の私の場合は倒れた直後に生まれてきた息子でした。

「息子があれこれ視覚認識できるようになるまでに、このデタラメ万華鏡のような視界を少しでもマシにしよう!」

「息子がしゃべり始める頃までに、きちんと誰にでも聞き取れるような発音をして会話できるようにしよう!」

「息子が歩けるようになるまでに、まず私自身がちょっとした手荷物を持ってでも歩けるようになろう!」

 

車椅子から立てるようになってから、まずは杖代わりにベビーカーを押して私がヨチヨチ歩行訓練を始めました。目が殆ど見えないので妻も必ず同伴です。

 

その他諸々、全てにおいて具体的な肉体機能再生の設定を自分でして、着々とクリアしてここまできたのです。

 

しかしその進捗にも限界がきはじめていました。肉体機能改善の加速度が落ちてきた私に反して息子が急に元気に走りだすようになってしまったのです。


肩車はもちろんのこと、子供を抱えて歩くことがまだ私にはできず、咄嗟に身体を動かせないし早歩きさえできない私と息子が二人きりでは危険が多すぎます。ここ半年はそれなりに私がこなしてきた、妻が不在時のベビーシッターも役不足になりつつあったのです(笑)。

 

ギリギリなタイミングでの待機児童からの脱却!

我ながらよくもここまで大きな事故なくやってきたものです。

 

子供を週に5日も預けることができるこれからは、時間確保が容易になる私自身にとっても大変助かります。独自のリハビリ内容も時間をかけてグレードアップできますし、あまり身体を使わない範囲でなら、仕事らしい事に費やせる時間も格段に増やせます。子供の保育園入園が、実際私個人にとっても大きな喜びとなっているのです。

 

どんなに羨ましがられているような人でも、とても他言できない苦しみを沢山抱えているものです。
逆にどんなに悲劇的に見える中からでも、いやむしろそれだからこそ、希望や楽しみや喜びをふんだんに感じながら人生を送ることができるのです。

私は気休めで言っているのではありません。自分の体験から実際そうであったことを淡々と語っているのです。

  セイジョウ石井

桜
2018年03月31日

桜が満開だと思っていたら、既にだいぶ散って緑の葉が出てきている枝も増えています。

 

「桜の咲くことが、どうしてそんなに飲み食いしてまで騒ぐほどのことなのだろう?」

 

長年私は不思議に思っていました。だって自然界には他にも美しいものがいくらでもあるというのに、桜だけが特別視されているのが不思議だったのです。

 

でも近年はわかるような気がします。(でも人が集まるような花見には相変わらず参加しませんが…笑)

 

何がわかったのかと言うと、桜はまるで人間の生のように、その儚さにおいて圧倒的なのです。

 

冬の間の桜の木はとても寂しくて、目に留めている人はほぼいません。まるで長年ぱっとしなくて脚光を浴びることのない人生のように… それが一気に人目を惹く景観を作り出すのですから。

 

しかもその期間は短くて、あっという間に散って地味な木に戻りますから、タイミングが重要なわけです。

 

当たり前な自然現象だとわかっていながら、皆さんその貴重さを堪能しているのですね。

 

一歳半の息子の歩行練習と私のリハビリを兼ねて桜に関係なく連日公園に足を運ぶのですが、満開の桜を見ても「そんなの当たり前のことだ」と言わんばかりに興味を示さない息子が、落ちてくる花びらにはとても強く反応するのです。

 

動いているからという理由ではありません、動くものは他にも色々ありますから。

 

空を指差して次々と散ってくる花びらを指摘しては、地に着いた花びらに直接触れて何かを話しかけているのです。

 

これは、花びらが非物質エネルギーを発散している証拠です。純粋な子供にはわかるのです。

 

それを見て、私は「まさに肉体人生と同じだ!」と思ったのです。

 

見た目はどうであろうとも、桜の木は年間を通じて桜の木として地道に生存しているのです。そして数日だけ一見華やかな姿になります。しかし地味で目立たない長い時期に耐えるからこそ花を咲かせることができるのです。

 

すぐに散ってしまうのも悲しいことでもなんでもありません。「花は桜でも木は桜じゃない」と思い込んでるから切なくなるのです。

 

人間の肉体死も同じです。誰もが順番に肉体死を迎えます。天変地異や疫病や戦争で一気にほとんどが散ってしまうことだってあります。

 

「どうせ散ってしまうのだから根元から木をなぎ倒しても同じこと」というのはナンセンスな話です。肉体死を無闇に恐れたり、死をタブー視しているというのは、そんなナンセンスな話なのです。それでは綺麗な花を咲かせるはずもないのです。

 

人の評価
2018年03月27日

人の評価

前回、「人に評価されたいのも自由」と触れました。そこで今回は「人の評価」そのものについての話題です。

あまり深く考えないで日常的に「高い評価を得ている」と聞くと、よい印象を持つ人が多いようです。なぜそのようになるのでしょう? 

誰もが、経済価値最優先の社会に染まってしまうと人間のことも経済的価値でしか見なくなり、自分自身も経済的価値を高めることを目標として生きるからです。だから年収○○円とかが人間の価値だと本気で思っている人もいるのです。

ところがそこには大きな矛盾があります。経営側からしたら低コストで生産性の高い従業員(ロボット)が高評価となるに決まっているのですから、高い評価を得たければ安月給で馬車馬の如く働けばよいだけになってしまいます。それは自分自身を安売りして消耗品のように疲弊するだけなの行為…なのにもかかわらずです。

逆に、ある人が生み出す何かが万人から高い評価を得たのなら、それを作り出した人が低評価であり続けることはないでしょう。しかし企業からしてみたら仮に生産性が周りの100倍の従業員がいたとしても、コストも100倍レベルでは当然低評価!笑

結論は、自分の経済的価値を高める方法は直接的に人の評価を求めないことなのです。そんな事にも気付かないというのは、幼少期から刷り込まれた競って評価される観念が邪魔をしているだけなのです。

多くの親にとって子供が有名大学や有名企業に所属することは気持ちの良いことですからたくさん投資します。(それももはや投機となる時代ですが…笑)
塾や学校はたくさん儲けようと、有名校に合格する生徒を一人でも多く輩出することに躍起です。

ひきこもりとは、子供たち本人が金儲けと見栄の道具にされているくだらなさに気付いて、ささやかな反逆が始まっている証なのです。カネ最優先のイジョウな大人社会が変わらなければ、次世代は育ちようがありませんね。

 セイジョウ石井

胸にしまう
2018年03月25日

胸にしまう

学校では、先生や親からの評価を常に気にして生活するようシステム化されています。その延長で、社会人になってからも職場の上司などはもちろん、それら染みついた習慣からなのか利害関係者以外の目まで過剰に気にして暮らしている人々が多いようですね。

評価されたいのも、人目を気にしてコソコソするのも、誰からも良く見られたいと考えるのも、その人の自由ですから別段問題はありません。しかし、常に遠慮することなく堂々と発言して行動する人に対する自分の態度には、多くの皆さんが難しさを感じているように思います。(無意識に反抗することも含む)

学校でも職場でも、組織に属しているからには周りへの配慮がない自分勝手な行動を慎むべきなのは当然の事としてです。

よくある例では、常々自分が言いたくても我慢していたことを誰かが言った場合に
1.「よくぞ言ってくれた!自分も日頃からそう思っていたんだ」
2.「それは言ってはならない!誰もが言いたいのを我慢しているのだから」
3.「へぇ、そんなこと言ってたんだ」とか、まるで関心のない人(笑)、
4.「胸の内にしまっておけばよいことなのに…バカだな~」(多いタイプかと思われます)

他人がすることへの自分の反応はかなりの自由裁量があります。

まさに学校教育の弊害でしょうが、選択の余地がない命令や二択三択なら得意でも「どうしようと全くのあなたの自由です」という状態が最も困る!という人が多いのです。

だからこそ「ひとまずしまっておく」ということになって、そればかりが長年あれこれ続き、物質ではないため気付きにくいのですが心の中はガラクタだらけになってしまうのです。

どこに何が入っているのかもわからない大量な収納ケースを大事に内に溜め込んだまま人生を送っている…いつの間にかそうなっているのです。そして中身が腐って内臓疾患等で肉体を脱ぎ捨ててはじめて身軽になろうとするのです。

健全に肉体人生を送るのなら「しまい込まないこと」が鍵です。子供のように一喜一憂していればその場その場で処理して終りです。後悔や恨みや復讐など、後ろ向きなエネルギーとは無縁になればよいのです。

セイジョウ石井は、子供のようにすぐに泣き喚くことを勧めているわけでは決してありません。感動や悦びなら、しまっておくことも楽しみだったり生活の知恵と呼べるものでしょうが、日々確実に溜まる汚れを長年大事に保管しておくのはイジョウだと言っているのです。

対処は簡単。定期的に洗い流せばよいだけなのです。「人との楽しい時間(楽しいフリではありません)が日常的に過ごせている」「頻繁ではないが信頼できる相談相手がいる」といったことが大事ですが、独りでも夢中になって没頭できる何かがあるのならばそれで洗浄できます。

そして行き着くのが「瞑想」的な事なのです。非物質存在の自由度を知れば物質世界に囚われて悩み苦しんでいることがバカらしくなります…あなたも確実に非物質の存在なのですから!

人が非物質の存在であること、そのことを「肉体死を迎えてからでなければ気付いてはいけない」というルールはないのです。

 

植物という存在
2018年03月24日

植物という存在

私が考える地球のメイン物質生命体は植物です。

水の星ですからもちろん水中にも繁殖し、巧みな方法で陸上にも潤いを継続的に与え、あらゆる陸上生物を養っています。決して人間のような暴力を振るうことのない、物質を伴う非物質知的生命体です。

物質の栄養源としてだけではなく、「波動」である非物質知性(情報)をあらゆる生物に提供し続けている植物の実体については、物質主義で総じて低知性な物質地球人の中でも気付き始めている人が増えています。(現代人的な表現ですと「薬品」ということです)

大型植物の大きさや寿命だけを考えても、その知性は人間などと比べるまでもないことですが、人間でも非物質的な側面が退化していない方ですと、時間軸縛りの範囲内でも「あら、久しぶり。前に会ったのは2千年前だったかしら?」というような植物との会話が成立するのです。

早送り映像でもわかる通り、植物だってちゃんと動きます。ただし生物全般的にそうですが、知的であるほど物質の性質が希薄となり、同じ物質でも運動能力を発達させなくなるため、身体の動きは少なく遅くなります。必要なら消滅したり瞬間移動すれば良いだけですから!笑

ただ残念なのは、ほぼ獣の資質だけで生きている先進国を中心とした今の人類は、おとなしくて無抵抗の地球のメイン生物である植物を大量殺戮し続けていることです。皆さん知っての通り、地上は本来のフサフサからしたらほぼハゲ、海中汚染も凄まじいレベルです。

「非物質が本質なのだから物質として星が丸ごと全滅したとしても些細な問題だ」と言ってしまえばそれまで(笑)ですが、だからといって私が「なるようになれ~」とも思えないのには理由があります。

それは「非物質の存在が物質に閉じ込められていると感じながらも、どれだけ非物質の性質を体現できるのか」というゲームができなくなってしまうのが問題だと考えるからです。

例えると「音楽(霊魂)そのものが好きなんだから会場(肉体)なんてあろうがなかろうか関係ない」とか言ってみても、世界中の演奏ホールやライブハウスがなくなってしまったら音楽という娯楽なり癒しなり芸事自体が消滅してしまうと思うのです。

わざわざこんな説明をしなくても、物質肉体を維持しようとするのはほとんどの人にとって当然のこと。だったら地球生態系の基礎である物質植物を地球から追いやらないことです。そんなこともわからない低知性は「どうせ数十年もしたら自分は死んで何もかもが無くなるのだから」というイジョウな死生観が全ての原因なのです。

  セイジョウ石井