お知らせ

【波動体験会】ご報告
2018年07月14日

【波動体験会】ご報告

今日は第14回目の【波動体験会】開催日でした。

 

参加者それぞれの体験する異次元が「かつての文明系」「パラレルワールド系」「水中系」「地中系」「空中系」「不明系!笑」とレンジが広く、いつもにまして楽しくて刺激的な会となりました。お集まりくださった皆さん、どうもありがとうございました。

 

私の話はいつもと同様だったと思うのですが、注意深く聴いてくださる方が多く、普段よりも心地のよい疲労に浸かってこれを記しています(笑)。「どこの世界へ行っても龍の出没率が高い」というのが今回の特徴でもありました。

 

お客様の異次元レポートにはそのまま映画の脚本にもできるようなストーリーが何本かあって、おかげさまで導かせてもらった私自身や耕平さんや妻の西きほ子にとっても満足感の高い会となりました。

 

これからも、私たちにできる手法で非物質世界の認識を普及させて行きます。これまでの皆さんもこれからの皆さんも、どうぞ宜しくお願いします!

勝敗をこえた価値観
2018年07月09日

勝敗をこえた価値観

大雨によって西日本を中心に死者が出ていることが報道されています。ニュースでも常に注意喚起を呼び掛けていたようでした。亡くなった人をはじめ大勢の生活に支障が出ている現状に全く無関心でいられる人は少ないでしょう。

 

こういった事態が起こると常に強く感じることが私にはあります。

 

自分が大雨を降らせたり崖を崩したりしている自覚がある人は原則としていないでしょう。つまり、自分が加害者となる可能性がないと判断する事柄に対しては「大変だ・気の毒だ」とか、堂々と言えるのです。

 

飛行機が墜落して死者が出ても、飛行機を造ったり売ったり操縦したりで稼いでいる人は多くはないので、全般的には事故を追及しやすいのです。

 

ところが自動車による死となるとどうでしょう。自動車産業に携わる人の数は膨大です。それが直接的な稼ぎの種ではないにしても、店に陳列されているどの商品だって自動車で運ばれているでしょうし、日常的に自動車を活用している人は田舎になるほど圧倒的多数です。連日どれだけの死者を輩出して健康被害を及ぼしていようが、それを廃絶されたら困る人たちが大勢いれば悲しいかなそれは継続されてしまうのです。

 

自分も殺人マシンを活用しておきながら、他人には「危ないからそれはダメだ」と言えるはずがありません。たまたま自動車を例にとりましたが、世の中のあらゆる事柄がこのような構図から抜け出せないでいるのです。

 

原発で潤っている人に権力者が含まれているのだったら廃絶するわけがありません…仮に何億人死のうが自分の懐が潤うことを優先するような人が権力を握ることに興味があるのですからね。

地球の現文明から戦争が無くならないのも当然のことです。見方によっては大量消費と大量生産を確実に促進するおいしい商売なのですから(笑)。

 

平和や愛を好む人は金銭や権力には無関心な傾向があります。きっと組織にも属したがらないでしょう。一般の企業に限らず、そこでの構造の上層に上り詰める人は決まって「敵・味方」「勝った負けた」等、今の地球文明独自の価値観をちゃんと有している人です。

 

地球上のどんな組織や団体に期待しても、残念ながら「この文明では争いや搾取が基本である」ことを思い知らされるだけなのです。

 

しかし本来、人間としての個人の価値観は誰からも自由なのです。「不本意でも多数派に巻き込まれなくては生きて行けない」という錯覚から抜け出しましょう。

 

現状では生活習慣をある程度社会に擦り合わせて行く必要もあるでしょうが、かといって自分の根本的価値観を捻じ曲げる必要はないのです。

 

生活を成り立たせながらも心を歪ませない、これはそんなに難しいことではありません。それが多数派になった時、自ずと人間社会は大きく変わるのです。

 

結局、鍵は個人にあるのです。

異次元の認識
2018年07月08日

異次元の認識

人は誰でもリラックスさえできれば数分で異次元を認識します。完全な睡眠状態ではないので「そのリラックス状態に導くことが難しい」というだけです。

 

高次元波動体験会ではそれを試みていて、実際にうまく行っています。参加者の皆さんには異次元で見えたり聞こえたり感じた事をご報告いただくのですが、複数の参加者にも同時に聞かれてしまうわけですから、表現を躊躇される傾向がどうしてもあります。

 

ただ、単独ではなく複数人同時に次元移行する場合の相乗効果は毎回思いのほか大きく、私の話だけではなくて他の参加者の体験談をも耳にすることが参加者の参考になったり不安の払拭になったりもするため、わかっていながらも敢えてそうしているのです。

 

「もっと踏み込んだ個人的異次元情報を入手して、それを人生に活用したい」とのニーズにお応えできる、個室での瞑想セッションを近頃はじめました。ドップリ踏み込んだ話も難なくできます。石井の話での誘導だけでなく、妻である西きほ子の霊視でもサポートいたしますので、エネルギーバランスを考えてお客様も一回で2名ずつです。

 

既に金曜日に3回実施しましたが、おかげさまで好評です。来週末は元々の高次元波動体験会が新橋でありますので、次回に限り7/10(火)正午からの開催です。ご都合のつく方、遠慮なくお問い合わせください。

 

 

「霊能力」とされているもの
2018年07月07日

「霊能力」とされているもの

「霊能力」と聞くと、一般的に特殊な能力だと思われています。ごく一部、そのような能力が重宝がられている場合もありますが、家族や身近に霊能力者がいたら気持ちが悪いとか不都合を感じる人の方が多いでしょう。

 

常日頃死んだ人と会話していたり、自分に隠したい事があっても何もかもお見通しだったり、どんな嘘も全部バレバレになってしまう人とずっと一緒にい続けたいと考える人は少数派でしょう。

 

しかし私に言わせれば、人間である限り誰もが霊能力者です。その能力に違いがあったり自覚のありなしに随分と個人差があったりすることは、何を例にとっても同じです。

それを「霊能力」と括っていないだけで、例えば知らない人が見たら「霊能力以外の何ものでもない」というようなことを仕事にしている人は、多方面でいくらでも見かけられるものです。

 

「UFO」という単語が、現代地球人が広く製造操縦している原始的飛行物体を除く全ての飛行物に当てはまってしまう…このことと同じですね。未確認飛行物体の事をUFOと呼ぶのですから、皆さんがよく知っている飛行機やヘリコプターは全て、江戸時代の人に言わせたらUFOです。

 

私、セイジョウ石井が常々話しているように、人間の大部分が非物質で、肉体は人間の中のほんの一部分です。その肉体を使って話したり書いたりしている中身は、合っていたとしてもその人の性質の僅かな部分だけです。何らかを飾ったり偽ったり隠したりしていることを考慮すると、読んだり聞いたりしたことの中にその人の中身が1%も表れていない場合だって十分にあります。

 

「私のことを理解してほしい」とか「私のことを誤解しないで」等の表現がありますが、そもそも肉体人間で自分自身を誤解しないで理解している人自体がほとんどいないのです。ですからカネを稼ぐことを筆頭に、人間社会の営みは原則ほぼ虚偽なわけです(笑)。だからこそ人生ゲームはオモシロイ!?

 

睡眠中は誰もが非物質活動をメインとしています。ただしそれ(夢)を正確に記憶できる人が少ないため、せっかく毎日本質に戻れていてもそれを肉体生活に反映できないのです。

 

ですから私は「瞑想を通じて、人間の本質である非物質活動を肉体生活へも有効活用しましょう」というスタイルのイベントを継続しているのです。

 

この記事を書こうと思い立ったのは、写真のように一歳の息子が私の睡眠中にほぼ毎晩ベッドに上がってきて一定時間寄り添って降りて行くからです。私はずっと「何をしているのだろう?」と思っていましたが、ザックリ言うと「どうやら私の夢を覗きに来ているらしい」との結論に私が達したからです。

 

女性に多いのですが、「それは嘘だ」「あれは演出だ」「これは本気だ!」などとなぜか直感してしまう人は世の中に意外と大勢いらっしゃいます。男性的に言うのなら、それらには科学的根拠がないので(笑)霊能力みたいなものですよね。いちいち指摘はしませんが私のセッション中にもそういうことが良く起きます。

 

本来それらは人間の誰もが有する能力であると私は考えますので、皆さんのその部分にもっと磨きを掛けようとイベントをしているところもあります。そのようにしてイジョウな人間社会をセイジョウなものに戻して行こうと私は試みています。

 

詳細な情報は常に妻(西きほ子)が発信しています。ご興味のある方はぜひともご覧ください。

本性を隠す生き方
2018年07月05日

本性を隠す生き方

人は皆、ほぼ誰でも隠し事をしているものです。それがばれたら大変な犯罪行為なのでしたら納得ですが、知られたところで別にどうこう問題にされることもないであろう趣味嗜好を、多くの人が隠し持っていたりするのです。私自身も若い頃には特にその傾向がありました。

 

取り柄の趣味や好きな事何かを活かして収入源を作りたいのであれば、「失敗を恐れるな」「恥をたくさんかけ」「嫌われることを避けようとするな」等々のよくある助言が多く当てはまります。しかし生計を既に他の何かで立てているとなると途端に皆さんあまり認知されたがらない場合が多いようです。

 

これらについて、少し一緒に考えてみましょう。

 

私は十代初期でイジメを受けた頃から40歳頃まで、ずっと自殺を検討していました。それは特定の誰かではない人間という生物全般の愚かさや醜さをしみじみと感じてしまい、自分もその人間でいること自体がつくづく嫌だったからです。

しかしどう考えても自分だけが死んだところで、特定人物へのイヤガラセにはなったとしても、それで人類全体が賢く美しくなるわけではありません(笑)。

 

十代の初期から「人間の生死」みたいなものを探究してきた結果、私は心待ちにしていた肉体死に価値を見出せなくなりました。人の本質が非物質存在だということが解ってくると、物質肉体での生死が些細なことに思えてくるからです。つまり非物質的には「死」というものがなく、人間が肉体死を迎えたところで何も解決はしないということです。

 

だから肉体死を無闇に怖れたりすることと同じように、肉体死を特別な楽しみにしていること自体もナンセンスだと感じるようになってしまいました。

 

どんなに死を怖れていても死期は遅れないし、どんなに楽しみにしていても死期が早まることはなく、死んで当然の状態にまで陥っても死なせてもらえない私のような人がいたりするのです(笑)…それらを寿命と呼ぶのでしょう。

 

何故こんな話になってくるのでしょう。それは、現代の日本社会ではごく少数の「スピリットを肉体で生きる人」と、大勢の「できるだけ物質の獣に近く、もしくはマシンとして生きる人」で成り立っているという前提で私は人間社会を捉えているからです。

 

前者は日本を出て生き生きと暮らしているか、日本で長年苦しみ抜くか、だいたいどちらかのケースが多いようでして、何の業界にしても自分の特性を自然に活かして収入を得て、生き生きと暮らしている人ともなると本当に希少かと思われます。

 

私がイジメに遭った理由でもありましたが、組織に属している場合、専門職でない限り「特に何もできない・特に何をしたいでもない」という無個性無能力をアピールすることが重要な時代が長かったのです。そうしておけば、好かれることはあっても嫌われなくて済むのです。どうしてそんな不思議な法則があるのでしょう?

 

悲しい話ですが、今時の人は皆が相対的な比較のなかで一喜一憂して生きています。一般的に子供時代は自分の可能性を信じて何かに打ち込んだりもしますが、思春期頃にもなってくると「現実問題、自分には無理だ」と思うことが増えてくるのです。

 

そこでまだまだ伸びそうな何かを見出していたら、特殊な業界での活躍や個性的な生き方ともなってくるのでしょう。しかし概ね何も思いつかない人が組織に属して生きて行くことを決めるのです。

 

つまりは大きな組織に属して働いている人は、原則自分がそれをやりたくてやっているわけではありません。ただ今ぐらいの暮らしが維持できれば良いと考えていたり、お金がもらえる他の何かが特に思いつかないだけです。組織は大よそ減点制です。変わったことをして目立ってしまっては出世が遠ざかってしまいます。

 

ここで重要な話に入ります。大抵の人は向上心を失ってからでも小さな世界に閉じこもって相対的な比較で生きています。そして寂しいことですが、自分が向上しなくても相対的に優位に立つためには「周りを貶める・利用する」しかなくなってしまうのです。そうでなければ常に自分をヨイショしてくれる人のお世話になるとか…(笑)

 

何歳になっても、向上心がある人は起業したり結婚離婚を繰り返したりで忙しくしていることが多いです。同じ組織に何十年も属していれば、イジメ先を探すのに忙しい人が大勢います。有能な脱落者を増やして何もできない人ばかりで周りを固めることがマジメな生き残り戦術なのです。組織下にいる誰にとっても自分より有能な部下とは扱いにくいものですし、有能な上司も苦手でしょう。

 

「思わぬ特技があった」とか「高尚な趣味を持っていた」とかは、元々が有名人でもなければ誰かの餌食になりやすいだけの話です。「黙っていた方が得をする」それがまさか小中学校の社会にも存在していたとは思いつきもしなかったほど、私は素直で正直で社会性の低いバカな子供でした。

そのままではどうせ社会に出てからでもイジメられていたことでしょうから、イジメに遭ったのはなるべくしてなったことです。

 

大きな組織に属していなくても、自分以外の誰かを悪く言っていたところで何も変わりません。「それが今の人間の主な性質だ」というだけのことです。起業しようが、放浪の旅に出ようが、組織でがむしゃらに働こうが、幸い今の日本国では自由に選べます。

一見は嬉しくない現象として、学生でもないのに働きもしない人の存在も広く認知されています。女性なら「家事手伝い」という言葉が昔からありましたが、男性も… 良くも悪くも凄い社会変化です。

 

正直、平然とした顔をしている大人でも困惑している人が実に多い時代です。新たな展開は誰に依存していても叶いません。

 

すべては自分がどれだけ意識変革できるのかにかかっているのです。私はその意識変革のきっかけづくりや変革サポートを、これからも精力的に進めて参ります。

愛想の良し悪し
2018年07月04日

愛想の良し悪し

若いうちはもちろん、歳をとってからも「カッコ悪い」と考える物事を避けて通ろうとする人が多くいます。何がカッコ良くて何がカッコ悪いのかのセンスが人によってまちまちなため、別の人に言わせれば「カッコ悪い」ことをいつも堂々としていながら、たまに訪れた多くの人にとって「カッコ良い」と映るチャンスをわざわざ逃している、という構図も見かけます。

 

美意識とは実に多様ですから、何にしてみてもそれぞれの欲求や各々の不服があるわけです。ただ、子供にとってのカッコ良い悪いは主に見てくれの問題なのに対し、大人になってからのカッコ良し悪しは圧倒的に考え方や行為に比重が移る傾向はあるようです。

 

自分の人生経験を振り返ってみてもまさにそうです。皆が見ている時に自分が言ったり行ったりする事へと意識を向けがちな子供時代から、成人すると明らかに「皆が見ていない知らないところで何を考えて何をするのか?」に美意識がはたらくようになってきたのです。

かといって上京して初めてのバイトが「飲食店の閉店後から開店時まで独りでお掃除」という私は、一気にシフトし過ぎた感もありますが(笑)。

 

そのバイトで私は多くを感じ取って学びました。若いスタッフ男女の皆が閉店後によく食事や飲み会に行っていたのですが、いつも一人で汚い店内、厨房や便所なんかを掃除している十代の私を不憫に思うのか、責任者ほど私に良くしてくれたのです。

 

若いスタッフの場合は両極端でした。全く関心を示さないか、酔っぱらっていても声をかけに来てくれたりするのか…笑 何がカッコ良いのかの感覚シフトがまだない人から大きくシフトしている人まで、幅が大きかったのです。

 

そこで私は実感しました。「地味な事でも手を抜かずにやっていれば見ている人は見ているものだ」と。とても重労働だったので、身体を壊すことを避けるために一年以内でやめてしまったような記憶がありますが、良い経験になりました。

 

愛想の良い人に出会った時、根っから明るくて爽やかなら大いに結構なのですが、上司やお客の手前で愛想よく振る舞っているだけの人も少なくはありません。そんな方は日常的に無理をしているので、ストレスのはけ口を求めています。すると気を遣わなくてもよい親しい人に歪の部分をぶちまけたりもするのです。

 

しかしそれも「心を開いてくれている証拠だ」と捉えて嬉しい人だっていますから、一概には良し悪しを語れません。ただ逆の見方をした場合、あまり愛想がない人は「無理に笑顔を作ったりはしていない」ともとれるので「ストレスをぶちまけられる事なく安心して親しくなれる」と私なんかは解釈するわけです。

 

話の根幹は、好印象を与えようとして大勢に愛想良くしてるが裏表があって親しい人には悪印象を与えてしまう人と、割と無愛想だけど知れば知るほど奥深くて感情起伏で周りを振り回すことのない人、主に2タイプがいるように私は感じているということです。

 

あなたはどちら寄りですか? 

もちろん「どちらでもない」という方もいるでしょう。

 

この分類的なものは「自分が広く評価されたい」のか、「わかる人にだけわかれば良い」と割り切っているのか、大ざっぱにはそんな考え方の違いなのだと私は思います。

 

それにしても「この人は評価されたい人だ」とはわかりますが、それがその人への高評価に繋がるかどうかはまた別の話だと私は考えています。

ハーフタイム
2018年07月02日

ハーフタイム

2018も後半に突入です。多くの人にとって月日の捉え方が前半の「今年になってもう○ヶ月も過ぎた!」から「今年も残りあと○ヶ月かぁ」に変わる時期です(笑)。

 

コップに入った飲み物が「もう半分しかない」のか「まだ半分もある」なのか、よく話題になるところですが、私は「気付いたら終わっていた」というくらいに時間経過を気にしないで夢中になれることが幸せな感覚なのだと思っています。

 

しかし学校でも職場でも、直線時間に縛られてほぼ全ての物事を進めているであろう生活の中では、そんな気楽な事を言っていられません。同じ地球上でも、いつ来るかもわからない乗り物を誰もが気長に待っている地域もあれば、数分遅れただけで怒り出す人がいる地域もあります。「タイム イズ マネー」って言葉もあるくらいですから。

 

時間を気にする人はお金も気にする傾向があるのは事実なので、言い得た言葉ではあると思います。今の日本でお金を気にしないで暮らしている人は僅少でしょう。私だってなるべく気にしないで生きてはいますが、今の社会環境下では金銭や時間を気にせざるを得ない部分だってあるのは仕方のないことですね。

 

「前半と後半」の話題にもどりますが、この時期を大きな節目として活用できることは確かです。今マスコミが騒いでいるサッカーにしてみてもハーフタイムが必ずあるわけです。

身体を休めることが重要なのはもちろんですが、心を休めたり切り替えたりする意義がとても大きいわけです。

事前に決めた作戦を実行したことがどうだったのかを振り返り、作戦を推し進めるのか、止めるのか、変えるのか、変えるなら何をどう変えるのか…大抵はそれらによって勝敗が決まるわけです。

 

パッと見は同じように見えるスポーツであっても、前半と後半では中身が全く別物であることも珍しくありません。勉強でも仕事でも趣味でも何でも、皆さんの前半の動きはいかがだったでしょう。

 

どうせ時間を気にする必要があるのなら「時期・タイミング」というものを積極的に有効活用しましょう。同じことをするだけでも、タイミングによっては値千金の場合と棒に振るだけの場合があるのです。時間や時期とは、本当に不思議なものです。

 

その内容は学生でないかぎり一人一人の状況によって異なるのですから、不特定多数を相手に時期の有効活用法は語りようもありません。ただ、私は同じ相手に同じアドバイスを出すにしても、常にタイミングを重視しています。

胎児への影響
2018年06月28日

胎児への影響

写真のミニカーたちは全ていただき物ですが(笑)一歳の息子がどうしてこんなに車のオモチャを好むのかが不思議です。少なくとも近年は両親共に車は乗りませんし、せがまれたら付き合いますが図鑑や雑誌をこちらから見せたこともありません。

 

小学生以上にもなれば「デザインがカッコイイ」「異性にモテそう」「機能が凄い」「乗り心地が」等の理由で興味を持つのはわかるのですが、乳児の頃から・・・謎ですね。

スピ好きな人なら「過去生で…」とか言えば盛り上がるのかもしれませんが(笑)私はこれについてある見解を持っているのでここに書いてみます。

 

お腹の大きかった妻の出産予定日に私が意識不明の重体となったため、息子は妻と私と一緒に救急車で運ばれてから数時間で産まれてきたという経緯があります。ですから、乳児の時から救急車に対する興味が絶大だったのは偶然とは思えません。

 

「出産前に乗ったのだから関係ない」と思う人が多いでしょう。それを言ったら出産後の赤ちゃんの視力や聴力だって怪しいものです。ですから私が考えるのは「胎児は肉体五感以外を普通に使って世界認識しているのではないか」ということです。お腹の中では皆がサイキックというような意味です。

 

妊娠中の母が体験していることを、肉体としてはまだまだ生育中、その不完全な肉体の器官を通さずに、非物質の自己で色々と認知していると思うのです…だとすると辻褄が合うのです。

 

妻は息子がお腹にいる間にも車がよく通る道を歩いていました。それで、息子は産まれた瞬間には既に様々な自動車と半年以上の馴染みがあるのです。外界に出る直前に乗った車は特に印象的だったはずです。

 

私が注視しているのは胎児教育の影響の大きさです。厳密には文字や作法を教え込むわけでもないですから「教育」ではありませんが、人としての感性は胎児の間にもだいぶ養われているように感じます。

大人のように肉眼や鼓膜で情報収集するわけではないですから、想いや気持ち等の波動で多くを感じ取っているのです。

 

わかりやすく言うと、妊娠中の母を中心にどんな気持ちで何を感じてどんな音楽を聴いて何を食べて… それらの発している波動が重要なのです。

現代はそこに無頓着な人が多すぎるのではないでしょうか。

生きる楽しみ
2018年06月27日

生きる楽しみ

あなたが生きている楽しみは何ですか?

 

どちらが良いわけでもありませんが、この質問には即答できる人と考え込んで答えが出ないタイプがいると思います。心の中には答えがあっても「他人に説明することではない」と感じていたりで本心ではない事を口にする人も多いことでしょう。

 

すぐに叶う願いはあまり「生きる楽しみ」とまではならないでしょうから、やはり「長期スパンで叶えたい、簡単には叶わない何かがあった方が生きて行く楽しみになりやすい」という傾向は総じてあるのです。

 

この世のあまりの生きにくさから、若い頃から私は「肉体死を迎えること」を最大の楽しみにしていたところがありました。何時なのかを別にすれば、誰でも人生最後には必ず叶う望みです。しかしそれだけに「自殺は反則だ」とも、強く自戒していました。

 

購入したい物の資金がなかなか調達できないからといって「だったら盗めばよい」というのが反則扱いなのと同じです。非物質的には「死が存在しない」のですから、重罪や自殺は自己に新たな歪みを生じさせるだけだと私は考えています。

 

50年近く生きていて肉体死のチャンスは何度か訪れましたが、今のところ最大の機会は一昨年前の脳幹出血でした。視聴覚をはじめあらゆる感覚を徐々に失って行く過程で「ああ、ついに私にもその瞬間が訪れた」と感慨深かった記憶は明確にあります。全く痛くも苦しくも辛くもなかったです。

 

肉体意識を失っていた間は、この世界だとしたらいろんな時代や地域かと憶測されるあらゆる状況下で忙しく活動していました。しかし後日、全身がしびれて激痛が走る特定の肉体に閉じ込められてしまいました。この肉体意識が回復したのです。

 

ゲットして当然のチャンスを逃しただけでなく、皮肉にも断トツ不便になった身体で余生を過ごすことが決まってしまったのです!笑 せめて歩けて話せる身体になるためのリハビリに専念しているうち、あっという間に二年弱が経過。

 

私は「肉体死のタイミングは地上の人間では理解できない何らかによって定められているのだ。望んでも避けたくても叶うことではない」そう開き直って受け止めました。だから自分が不便な身体に宿っていることにも憂鬱は感じません。

 

私がこれまでに得た体験や知識などを日々発信することができる身体には既になりました。

奇しくも私が倒れた日に誕生した一人息子と肉体で接しているだけで、今の私には充分な楽しみです。

変化への抵抗感
2018年06月21日

変化への抵抗感

人間には大きな変化を怖れる傾向があります。それは何故でしょう。

 

現代人の多くは「これまでの蓄積」を重視して生きています。これは行き過ぎると「常に過去に生きている」とも言えるわけですが、「どこの学校を出た」「○○の国家資格を取得した」「どこそこに勤務した」などの過去の蓄積が、自分がどんな人間であるのかを証明している…ざっと平たく言ってそんな考え方です。

 

すると、過去の自分ならばそうしないであろう事を言ったり行ったりすることが、過去の自分を事実上否定しているように思えてくるのです。そんなきっかけを自分からわざわざ誘引したくはないから、これまでの価値観や行動パターンが変わってしまうかもしれない物事を、単純に「怖い」と感じて避けているのです。

 

常に今に生きているのなら、言うことや行うことがコロコロ変わることにもなります。でもそれは別に過去を否定することが目的ではありません。常に工夫や改善をしているのです。個人でも法人でもそのような柔軟性があれば存続できますが、「それが慣習だから」というだけの理由で同じような事を繰り返しているようでは時代の変化にすぐに適応できなくなるでしょう。

 

ですから今はむしろ「大きく変化できないことが怖い」時代なのです。にもかかわらず人生の舵を大きく切ることが出来ない人は、益々困った状況になって行くでしょう。そして最期には大きな変化を受け容れざるを得なくなるのです。

 

行動だけが変わるとしたら、それは強制的な指示に基づくものです。しかし考えや気持ちが変われば行動も自ずと変化します。それは過去の否定でも何でもありません。

 

例えばシェフが突然和食の料理人を始めたとしても、それは長年続けてきたフレンチなりイタリアンなり中華なりを否定するためではないのです。何をするにしても、大切な事ほど人目を気にしすぎていては上手く行かないものなのです。

 

あなたの人生の責任を取ってくれるわけでもない人の目を気にして、いったい何になるのでしょう。

もしも望まれるなら、私は定期的にお話をするだけで人生変化のお手伝いすることを得意としています。