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世代による価値観
2017年06月22日

世代による価値観

突然おかしなことを言うようですが、私は自分で自分の肉体が生きているのか死んでいるのかが、よくわからないのです。

それは決してケンシロウを相手に闘ったからではありません(笑)。夢を見ている最中や瞑想中の体験などでは肉体や物の質感が充分にあっても、こちらの世界に戻ってきたら「あれは夢で、これが現実である」との割り切りルールを自分で作って受け容れてきたまでのこと。

私の身体の強健さを自他共に認めた中学生の頃から今に至るまで、常に定期的に湧き上がってくる何とも言えない感覚があります。「ツライ・悲しい・苦しい」等の気持ちとは違って、無理に言葉にするなら「何から何までが不思議でならない感覚」でしょうか…。中年になってこの肉体が集中治療室に運ばれて、ほぼ機能停止するような経験を度々してきて、そんな時にこそ強く記憶に残る濃厚体験を別次元でするのですから、尚更です。

もう約30年も前のことですが、霊魂としての自分の存在だけは確信できていた高校生の私の感覚からすると、生物が物質として存在すること。その物質生物である人間が、肉体生存に不可欠とされる物(カネ)を追い求め続けて一生を過ごすこと。全宇宙を物質として説明している現代の宇宙観・世界観・人間観を当然の事として受け入れている人が大多数で社会が成り立っていること…等々の解せない不思議だらけで、それらを探究したい情熱以外に欲求らしきものが皆目見当たらず、そこから20年間は常に身の振り方に窮していました。

「とにかく物質だけではない生命とは何か?」との疑問探究以外には期待も希望もないのですから、私の肉体生命維持欲求が希薄なのは一貫していました。しかし、肩書きでも名誉でもカネでも色でも健康でも何でも強く求めることがない分、失うことのショックも小さいため、衝動的に何かをしでかす確率は案外と低いのです(笑)。

ところが前世紀から今世紀に入る節目に世に出た映画「マトリックス」を観た時、私は大きな喜びを感じました。絶対唯一だと思い込んでいる現実が幻想である可能性を見事に描写している内容だったからです。作った人たちはもちろん、それに気づいている人たちがこの世界にも一定数はいるであろうと憶測される作品だったからです。

あれから17年、映画に限らず今ではあらゆる作品にその概念が盛り込まれています。つまり、子供の頃からそんな感性を培った世代が大人になっています。お金に繋がる地位や名誉や評価・家や車などの物的資産所有・性的快楽・飲食や観光旅行などの享楽…等々に興味の薄い人たちが増えているのです。

それらを動機に頑張ってきた世代が作った世の中のしくみに乗っかれない人々が溢れ出てくることは当然です。高校卒業後の私は家賃を払うために朝まで掃除のバイトをしたりの生活でしたから、それほど贅沢なひきこもり生活はできませんでしたが、男性ほぼ全員が学生か公務員か会社員か自営・経営かのどれかに該当していた時代でも、既にどこにも属さない中途半端人生を選択していた「ひきこもりフロンティア」(笑)の自覚はあります。

お伝えしたいことは、物質的価値観に埋没できない人々が急激に増えているということです。幻想に全てを捧げる生き方ができないことは誰にでもわかることです。
何が現実で何が幻想なのか。
その定義が相違したままでは、話し合いの土俵にも立てないわけですね。

簡単に説明できることではありませんが、25(日)その価値観の違いをわかりやすく解説いたします。俗に「ひきこもり」と呼ばれているものは、どんな現象なのか?
社会でバリバリ活躍している人でも遠慮なくお越しください。
「ひきこもり代表」として(笑)いろんな質問にもお答えいたします!

「ひきこもり講演会」開催の御礼
2017年06月17日

「ひきこもり講演会」開催の御礼

今週14日(水)「ひきこもり講演会」の第一回目が無事にシリーズのスタートを切りました。お集まりいただいた参加者の皆さん、誠にありがとうございます。

初の試みで平日正午の前後を跨ぐという時間設定でしたから、予想通りの少人数。結果的に少数精鋭メンバーとなった(笑)ならではの、皆が旧知の仲であるかのような率直で活発な意見交換ができまして、4時間があっという間でした。

現在の社会システムからして「一般的な職」として認知されているあらゆる方面の主導を握っている人たちは、競争を勝ち抜くなり定めとして道が用意されていたりして優位に立てた人です。

例外はありますでしょうが、原則「劣」や「弱」(これもあくまで現代人の見方でしかないのですが…)を対象に虐げたり踏み台にしたり搾取したりと手段は様々ですが、少なくとも前世紀までにおける「優」や「強」の立場となることは、大なり小なり「他人を利用」することができる自分勝手な精神構造があってはじめて成し得ることです。

「世渡り上手」とか「要領がよい」などと言われる成功や出世に必要となる性質は、綺麗ごとではない現実社会の闇の実情を早かれ遅かれどれだけ受け容れられるのかにかかってくるわけです。社会人経験をどっぷりとは積んでいなくとも、フィクションでありながらもその多くは実話を参考にして作られている、映画やドラマや小説からでもわかること。

「いくらカネのためだとはいえ自分にはそんなことできない」みたいな気持ちが頻繁に湧く人ほど、生きにくい社会なのは確実なのです。逆に言えば「カネのためなら何だってしますよ~」って人には生きやすい社会のしくみ(笑)。

ここまで読まれて「そんなにネガティブな見方をしているから成功できないんだ…」みたいに感じられた方は、俗に言う「ポジティブシンキング」類の影響を受けたか、元々楽天的な性分なのかもしれません。しかし現実社会のあり様を「おかしい」と感じて馴染めずに生きて(肉体死を選ぶ人もいますが)いる、不器用で要領の悪いひきこもりは潜在数を含めれば膨大な数なのですから、これこそ現実です。

「ものは考えよう」なのは事実ですし、私も思考転換を積極活用してこの物質世界に暮らしています。しかし物質世界の主導者が「カネにならないから」という理由で見事に「問題を問題としては捉えない」「見て見ないふりをする」「改善解決のポーズをとるだけ」という誤魔化しで長年ここまで来た結果が、現在の全ての社会状況を招いていると思うのです。

歪んだ社会に沿った歪みを後から来る人間に植え付け続けることは、もう限界でしょう。かといって「社会を変えよう!」などと声をあげているだけでは何も変わらない虚しさ…そう感じている方、今は見えないけれど大きな何かを一緒に築いてみませんか? 

次回で第二回となる「ひきこもり講演会」&意見交流会は6/25(日)13:00から。

場所は新橋のアートサロンで、明るい未来の社会像をゆったり語り合いましょう。

紙一重
2017年06月13日

紙一重

茶化すように使われることの多い「バカと天才は紙一重」。きっと皆さんこの言葉の意味を噛み締めるような経験がどこかでおありなのではないでしょうか。それが自分のことであるならば「諸刃の剣」にも似たような意味があります。

私は実弟が先天性の重度知的障がい者ということで、私自身も小学生の頃から小高い丘の上にある養護施設に出入りしていました。入居者ではない私が施設敷地内に入ると、何者かがいきなり顔面に石を投げつけてきて額から流血するという手荒な歓迎を受けた事もありましたが、大人になって思えばそれは第三の眼を開く強制儀式だったのかもしれません(笑)。辛い思い出はそれぐらいです。

そこにいた人々は子供から中年まで幅広かったのですが、初めて接した時の慣れない発声や身のこなしに異様さを感じる他にはこれといって危害を加えられることもなく、私にはただ「一般の学校や職場に通って同じような事を日々繰り返すことができない、何らかの要因を抱えている人たち」という捉え方をしていました。

実は、障がい者とは逆のパターンもあるようでした。例えば、初めて会ったのにもかかわらず、長年私たち家族のスパイをしていたのではないか?と思うほどの詳細情報を10歳前後の子供がマシンガントークしながら歩み寄ってくるのです。抑揚の無い無感情な超高速の喋りはまさにマシンです。話せないし字も書けない弟から情報を引き出すことは常識的に無理です。こんな凄い人が学校や会社にいたら、もうオカルトの世界ですよね(笑)。

他にも、10歳過ぎても三輪車しか乗れなくていつも独り言をつぶやいていた子供が、彼の自宅からも施設からも数十キロは離れた場所にある私の自宅に、私一人だけが在宅していた僅かな時間を狙っていたかようにいきなりやって来て「○○君(弟)いる?」と話しかけてきたのです。しかも私が気付いた時、彼は既に私の部屋の扉を開けて顔を覗かせていたのです。呆気にとられていた私は我に帰って、出て行った彼を探したのですが、もう姿はありません。彼はテレポーテーションを常用していたのでしょうか…

ですから私は、今の社会では「一般的にはないはずの何かを有している」場合でも、「持っていて当然とされるものを持っていない」場合と同等の扱いを受けてしまうという前提に立って人間社会を観察しています。

そのような話に興味がおありなら、明日14(水)25(日)「ひきこもり講演」に是非お越しください。生まれつきの霊能力で苦しんできた妻とのコラボです。

実際に引きこもっているのは、どの立場の人なのでしょう!?

自己表現
2017年06月11日

自己表現

「自己表現」とは、文字通り自己を表現する行為を指す四字熟語です。

一般的な学校や会社に通った経験がある人がイメージする自己表現とは、文章を書いたり話をしたり絵画や音楽や造形美術などの作品を通して訴えたりするような、何らかのメッセージ性があってこその「自己表現」だと思うことでしょう。

ですから、数歳の子供が日記に「今日の○○先生は機嫌が悪かった」や「お昼ご飯はまずかった」とか「○○ちゃんはすぐにばれるウソをつく」などと書いても(笑)立派な自己表現だとは思われないし、自己表現ができる大人になるまでの訓練時期だと捉えているわけです。

ここに大きなテーマがあります。

会社や国や自治体(時代によっては軍隊…等々)に属して働くようになる人間を養成するのが学校の目的だとすると、ある程度の表現能力は欲しくても自己表現は原則タブーなわけです。

自分のことを「ウチ・わたくしども・我々・弊社・我ら・我が○○」などと呼んで、自らが所属組織の一員でしかないことを強調する文化の中に浸って暮らしを成り立たせている人が大多数なのです。外部に対して「実を言いますと…」とか、内部に対して「私の本当の気持ちは…」なんて言い出す人がポロポロ出現したら、維持できない組織がほとんどでしょう(笑)。

つまり「いかに自分を表現しないでやりすごせるのか!」が重要な、ガマンの人生を多くの人が歩んでいるわけです。そんな実情にある立場の人から「自己表現をちゃんとしましょう」などと言われても、「支離滅裂」という四字熟語の意味に精通するぐらいの話です(笑)。

誰もがタテマエとホンネの使い分けができて当然の時代から、「ウソをつけない、ウソで固められた社会に参画できない人々」の比率が格段にアップした時代に突入しているのかもしれません。そのような人達のことを「要領の悪いバカだ」などと一部の例外者扱いで一笑に付してもいられない社会変革の時に入っているのです。

今あなたの周りに存在する通勤も通学もしない人は、表向きの現象がヒキコモリだとしても本質は当事者各自だけの問題ではない!だからといって見て見ないふりをしているのは決して得策ではありません。それは例外案件ではなくて既に一定の比率を占めているのですから、かかわる皆さんが前向きになれるようなお話会を開催します。
第一回は6/14(水)、参加費500円です。気軽にお問い合わせください。

愛がすべて
2017年06月08日

愛がすべて

今の世の中、何らかの数値達成や特定の状況変化を目標に頑張っている人も、逆にそのように目指すべき目標が無いことを気にしている人も、「目標」という単語に無反応な人は少ないでしょう。ところが根本に立ち返って考えてみると、具体的な目標とまでは言わなくても、名前があって暮らしている万人に確実に該当する人生の目的とは、物質地上世界で肉体を有して生きることです。

皆さんは当然であると感じているのかもしれませんが、実はものすごく特殊である「物質世界での生活」というものは、肉体のない一般的な知的生命体では経験できない条件に溢れています。

その最たるは「時間・空間」という縛りの体験です。

それがどういうことなのかを卑近な例で挙げるなら、目の前にDVDソフトが何百枚もあったとして、それぞれの作品の凄さ・楽しさ・爽快さ・悲しさ・虚しさ・怖さ・感慨深さ…等々の説明書きをどんなにじっくり読んだところで「実際に作品を視聴してみなければ価値は生じない」という意味です。それがどんな内容であっても、各作品の視聴体験そのものに意味があるのであって、誰がどんな作品を製作しようと、どの作品を視聴してどんな感想を持とうとも、全くもって各人の自由です。他人の作品をどうこう言う必要もありません。

人間にエゴがあるということは、それぞれ個別に独立した作品があるということ。 

皆さんが子供の頃から「命の大切さ」のような言葉を見たり聞いたりして育ってきたと思うのですが、私が思春期の頃には「そう言いながらも、地球人類とは常に殺戮や環境破壊に励んでいる変わった生物である(笑)」という事実の不思議さに圧倒されました。でもそれは「命」の定義から由来しているのです。

 「物質肉体でなければ生命ではない」という思想を信奉している人々によって発展してきたのが今の文明なのです。

人間の氏名をはじめとする固有名詞がこれだけの意味を持つのは、時空に縛りつけられた物質世界だけです。ですから「その氏名で呼ばれる肉体が機能しなくなれば生命ではない」という奇怪な考えが普遍的となるのが今のグローバル社会なのです。自然下に生きる動植物にとっては、その物質死も含めての生命の営みですが、人間のペットとなって名前がついた時点で「肉体死は悲惨だからと無闇にそれを避けようとする」人間のエゴシステムに組み込まれますから、外見は自然動物であっても非物質的には種類が異なる生物と考えるのがよいでしょう。

物質世界で使われている言葉「愛・慈悲・ワンネス」のような表現は、物質偏重の思考から抜け出せて初めて理解できることです。人間の五感では動いていることが認識できないような土も空も石も水も、物質はもちろん非物質もすべて「命」であり、生きています。個別の認識ができない世界では当然、すべてがつながっていて切り離すことは不可能です。そのことを「宇宙はすべてが愛でできている」というように表現されるのです。

だから「愛がすべて」なのですね。
宇宙を構成する材料「愛」の基本は非物質ですが、そこには一部物質も含まれるということです。

ひきこもり
2017年06月04日

ひきこもり

一言で「ひきこもり」といっても、私はそのひきこもり度合いにかなりの幅があるものだと感じています。皆さんはどうお考えでしょう。

政府や社会が「ひきこもり」だと認定?するレベルは「少なくとも半年や一年など年単位の期間、学校へも職場へも通わず、社会的な接点を持つことなく家ですごしている状態」を指すようです。

相手が家族でも誰でも一切接したり話したくないケースから、ちょっと買い物に出るくらいは平気だという人もいるでしょう。たとえ重度ひきこもり中でもトイレには仕方なく行くのと同じように、電車や車で通学通勤していながら「実質ひきこもり」という方々が大勢いらっしゃるような気もします。

昔から世界中で言われている通り、他人は自分の鏡でもあります。つまり程度の差こそあれ、周りに映し出される自分の姿に耐えられない心境だということですが、どういう理由で鏡に写りたくないのか…それには人それぞれの背景があるため、なかなか画一的に扱えるテーマではないのです。

自己像を初めて知らされたショックで収縮したのか、元々持っていた自己像と周りの評価との相違があまりにも大きかったために愕然としたのか、自覚があって防御していた部分が露呈されてしまい情けなくていられないのか… 
実に様々なパターンがあるでしょう。

 対人間や対社会で生じる「ひきこもり」ですが、本人の能力なり哲学なり技術なり、これまで蓄積してきたもの、してこなかったものに端を発しているのは確実な現象なわけです。綺麗な言い方をすれば「醜悪な人々に囲まれたこんな穢れた世の中で自分はとてもやって行けない」という口実にもなりますが、それも「対人免疫力を養いそびれた」と言ってしまえばそれまで(笑)。

 30年前なら肩書きや資格等で組織的に守られて生きて来られた人々が大勢いたでしょうが、今やそれだけで守られる人は著しく減ってきている世の中です。かといって雑誌やネットでもてはやされるような人生に該当する人はごく一部です。

 「普通に生きるのが難しい時代」なのではなく「何が普通の生き方なのかを見極めるのが難しい」時代になったのですね。

6/14(水)6/25(日)は、そんなマクロ観点からのお話がメインとなるでしょう。

 

「分離から統合へ」とは
2017年06月01日

「分離から統合へ」とは

ここ数十年「分離から統合の時代へ入る」などとあちこちで頻繁に謳われています。

二極化・陰陽・白黒・明暗・昼夜・光と影… 生まれてからこのかた、そうであることが当然で暮らしてきて慣れきった概念が「そうではなくなる」という説明は、それが何であろうとも難しいものです。新しい概念というものは、体験してみてはじめて「こういうことなのか!」と理解できるのであって、事前に言葉を並べて説明してみた場合は「ふぅ~ん」ぐらいの反応でも「これでも伝わったほうだ」と楽観視できければ説明を試みる気にもなりません(笑)。

 ではここで極端な例を挙げましょう。「幸せになろう」とか「必ず幸せになる」でも「幸せでいるのが当然」でもこの際、言い方は脇に置いといて「幸せ」と定義している時点で「幸せでない=不幸」という状態との対比となっていて、これは二極化の考えに基づく発想なわけです。つまり「統合」も「分離」に対する分離用語!(笑)

「幸せなのか不幸なのか」が全く気にならない、問題にならない、比べることがない、その概念すら湧き起こらないのならば、それは分離の思考を脱した証拠です。これは「健康⇔病気」「成功⇔失敗」「金持ち⇔貧乏」「男⇔女」「美人⇔ブス」「オシャレ⇔ダサイ」「利口⇔バカ」「デブ⇔ヤセ」「ノッポ⇔チビ」「ジジババ⇔ガキ」…等々の俗語を含め、何にでも当てはまることです。

そうはいっても文章を書くからには、私もそのような対義語が存在する単語を頻繁に使わざるを得ません。ですから「言葉」そのものが「分離思想の産物」のようなものであると私は認識しているのです。

では、分離を象徴する「言語」に対する非分離の概念は何かといいますと、強いてあげるならそれは「テレパシー・想い」のようなものですね。それこそ言葉にした時点で安っぽい分離ツールになってしまうような気もしますが、意味が近い単語ですと「愛」だと思うのです。「愛」を真剣に「性欲・所有・制御・執着」などの同義語だと捉えている人も結構たくさんいる疑惑の単語(笑)ですし、対義語で「憎しみ」なんて言葉が出てくるのは更なる勘違いだと思えて少し悲しくもなります。

欧米的分離の思想が浸透した今の日本では「愛していると言葉で表現してほしい」的な場面がドラマでも現実でもあるように思います。「愛」以外の利害関係事は言葉にすることが重要である場合も多いと考えますが、TVなどで洗脳された人が「愛を言葉にする」というその行為をバロメータにしているケースもあるようですね。でもかつての日本には「想いを言葉にすると軽薄な記号になってしまう」という感覚を持った人がきっと多かったのでしょう。

そもそも、愛を「測る」という概念を持っていること自体が究極の分離思想ですから、両者共にそうでなければマッチしないことは確定しているわけで、どうでもよい事なのかもしれません(笑)。

さて本題です。これら二分や対立を象徴する言葉の中で私が最も重要視している言葉が「生死」です。

現代人なら「生」と「死」が全くもって真逆の現象だと捉えていることでしょう。自分自身や家族に向けられることの多い考えでしょうが、肉体での生が絶対的に重要であり、そのためなら本当に何だってする。肉体死こそが最も避けるべきことであり、確実に訪れるその時を怖れて忌み嫌い、想定すらしたくない…

この考え方が変わるとき、他のあらゆる事柄も変わります。少し考えれば誰にでもわかることですが、この上ない分離の思想に乗っかった人生では万事が分離の思考でしか捉えられない!これは当たり前すぎることです。

何十年も前に丹波哲郎氏がいつも言っていた「死ぬのは怖くな~い」が腑に落ちた場合ほどの最強人生はないでしょう。しかも、生きている万人が手に入れることのできる素晴らしい心境なのです。私は何も肉体死を勧めているわけではありませんので誤解なきよう。むしろ逆の効果が出るでしょう。長寿で活躍する人は皆、生と死を分離して捉えてはいないのです。どんな窮地に陥ったとしても、死んだところで全てが解決するわけではない!という意味でもあるのです。

使いたくはない言葉ですが(笑)「生きている皆が心豊かで健康長寿となり、争いという概念が消える」方法でもあるのです。「争いの概念をなくす」ことに難しさがあるのではなくて、その前に万人が「肉体死は怖くない」と思える人間本来の死生観を、宗教ではない形で普及させることがポイントなのです。そうすれば現在ある文明社会や環境の問題を問題として維持してきた努力が自然とアホらしくなるのです。

「どうせ死ぬのだから…」は肉体だけの話です。肉体は自分のほんの一側面でしかないことをよく理解できたとき、はじめて無制限に穏やかで寛容な気持ちとなれるのです。誰かやどこかや何かに依存することも無くなるのです。現在の人類の愚かな行為はすべて、自分の肉体死を必要以上に怖れることで成り立っているのです。

 

自分の道
2017年05月26日

自分の道

「自分の道を歩む人生」なんて類の言葉に憧れやカッコよさを抱く傾向が生れたのは割と最近のことかと思われます…もちろん数ヶ月や数年ではありませんが(笑)。

自分の道を他の誰かがどうこうしてくれるとするならば、それは大人になるまでの「子供」とされている期間が主であって、この文明でのあらゆる時代と場所を平均するならその期間はせいぜい十数年でしょう。現在の日本では全員ではないにせよ、老後とされる年齢になっても「国が・政府が・企業が・自治体が」場合によっては「親が!」道を用意してくれるのか、くれないのかが重要な論点となっているような状況です。

最も普遍的パターンであったはずの「子供」は全くあてにしていないという世帯も多いようですし、私もそれを批判するつもりは毛頭ありません。他ならぬ私の肉体生命も、間違いなく身近な人々の支えがあってこそ今日まで続いているのですから。元々その傾向はありましたが近頃は特に、朝目覚めると「随分と不具合の多い身体となってはいるものの、自分はまだ肉体を維持して生かされているのか・・・」しみじみそう感じて不思議でならない毎日です。

「道」にも色々あります。幹線道路・国道・県道・私道・あぜ道・獣道… 左上の写真は、聞いた話ですと「よく氾濫していた川を工事して歩行者専用の緑道にした」という、近所にある私の散歩道です。日中は猫が挨拶に出てくる以外は歩く人もまばらで、リハビリ歩行訓練には丁度良いのです。

20世紀後半での日本人の人生の選択は、どんなに渋滞していようと幹線道路に人気が集中していたわけです。そのルートに乗ること自体が目的であって、慢性渋滞の太い道に入れることを誇りに思える精神構造をした人が圧倒的に多かったのです。しかし今世紀に入ると、明確で具体的な目的地に向かうのには幹線道路では辿り着けないので裏道を探して見つけたり「どうせ無目的のドライブならば…」と道自体が楽しいコースを選ぶ人が増えてきたのでしょう。

細くてまだ整備されていない道を試行錯誤して進むことが不安で怖い人もいれば、それがワクワク楽しくて仕方がない人もいますから、どの道を行くのも正誤や優劣の問題ではありません。

ところがこれらとは異なる概念があります。それは「道なき道を行く・道を切り拓く」というものです。断念して引き返すリスクたっぷりの選択(笑)。費やす時間もお金も労力もダントツです。良くも悪くも社会が大きく変わる時は、これを成し得た人が絡んだ場合です。人知れずそのように生きた先人も大勢いたことでしょう。この世に名は残らずも功績は遺して他界した方々です。

つまり私が伝えたいのは「自分の道・我が道」などと言っても、その人オリジナルの道などハナから存在しないのです。それを開通した人、そこを後から通った人々がいるから「道」なのです(笑)。そしてどんな道であろうと、選択した道を進んでみないことには何もわかりません。進んでみたらその人にとっては思いのほか快適な道だったのか、あるいは別の道を探したくなるのか、それとも行き止まりで選択の余地なくルート逆行を迫られるのか…

そこまで来てはじめて「どんなに分が悪くても自分で道を切り拓く他はない、道を拓こう!」そう決断する場面が訪れるのです。情報過多時代に生きていると、いきなり自分で簡単に道が拓けるものと勘違いする人も出てくるのです。幹線道路の渋滞情報は簡単に入手できますが、脇道や田舎道の情報は入手困難な上、内容が歪曲されている場合が多い…という背景も後押ししているのでしょう。

 

植物に学ぶ
2017年05月23日

植物に学ぶ

「植物は凄い!」しみじみそう感じるようになったのは、私が高校生になってから。

小学校でアサガオなどの成長を観察記録していた憶えがありますが、小さくて食事をしなくてもちゃんと日々変化して花を咲かせる自然の不思議を実感できたものの、おそらく少年の皆がそうであるように、観察しているその場での動きが速くて面白い昆虫や魚や鳥や動物の方に常に関心が向いていました。

生まれ育ったのが自然の多い田舎でしたから、家の周りにも多少は草木が生い茂っているのが普通です。山も川も湖も海も近く、私はいろんな生物の営みを観察して自然から多くを学んで育ちました。

そして様々な生物を飼育してきて気付いたのです。身近に置いてもほどなく衰弱したり死んでしまう、そもそも人間の身近に置くことすら無理のある生物が多い中、自分が生れた時にはそこにあった植物が最も逞しくて強く、人間をはじめとする周りの生物に恩恵をもたらし続けているという事実に!

人間よりもはるかに偉大であろう…その樹木の繁る森を、人間の頭の毛を剃るようにして次々とハゲ山にしている人類を蔑みたい気持ちにもなりましたが、自分も木造の家に住んでいるし木製の楽器や家具も大好きだったのです。動物愛護で皮や肉を避ける生き方ならまだできますが、植物を一切食べないし活用しないという生き方は叶わないでしょう(笑)。何でも節度の問題なのです。

さて本題は、その植物に関するエネルギーです。動きはとてもゆったりとしているのに、どうしてあんなに大きく太く長く生きて行けて当たり前なんでしょう。人類が手を入れたりとかで環境が激変しなければ、樹齢数百数千年どころか数万年単位だってあるだろう、というのが私の考えです。学校で教わった「光合成・水・地中の養分」だけで説明できるはずもない圧倒的なエネルギー…それは非物質だからです。

工業製品となってからでも長年感じられる木材の生命力に比べたら、平均的現代人に係わるエネルギーの非効率さといったら呆れるのを通り越して感心しちゃうほど(笑)。大量生産大量消費を目的に仕込まれた社会システムだからとはいえ、こんなにエネルギー効率を落としてまで順応できる生命体は人間を除いて他にいないでしょう。良くも悪くも、どのようにでも大きく変われるのが人類なのですね。

しかしそんな現在でもエネルギー量が枯渇寸前ではなく、そのエネルギーを外に向けようがないため内に向けている人たちが「ニート・ひきこもり」として規格外の扱いを受けていることが多いのです。あなたの家庭ではないにしても、周りにそのようなケースを見受けることが多いのではないでしょうか。来月は、そのような「人生におけるエネルギーの使い方」について【ひきもり講演】と題して平日6/14(水)と週末6/25(日)、一回ずつお話します。お問い合わせも、お気軽にどうぞ。

空間自体がエネルギー
2017年05月18日

空間自体がエネルギー

皆さんは「エネルギー摂取」と聞いて何を思い浮かべるでしょう。

学校の授業で「たんぱく質・でんぷん・ビタミン・脂肪・酸素・燃焼」等の単語を知ることとなり、きっと多くの人にとって、それらはその後何十年経っても変わらない概念となっているでしょう。

私がこれまでに接してきた人々の中にも「朝飯も食わずに出勤(登校)してくるなんて問題外だ!」やら「もうとっくに昼過ぎだ。早く飯を食いに行かないと体がもたない!」とか「夕飯はもっとモリモリ食べないと力が出ないぞ!」といった類の価値観を半ば押し付けてくる年配の方がどこにでもいました。その度に私は「世の中、そんなすぐにガス欠でエンストしてしまう燃費の悪いマシンや、電池がすぐ空になってしまう電力ロスの大きいオモチャと同じような人ばかりではないんですよ…」と心で呟いていました(笑)。

「飢えを知らない贅沢な時代環境に生まれ育った輩の戯言だ!」そう誤解されるのもイヤですし、若くはなくて肉体を育む必要の全くない私でも、前回の食事から丸一日も経てば実際に思考内容の比率が食べる事で占められはじめます…今がまさにそんな空腹状況(笑)。だからこそ、考えたり文章を作ったりする気力が湧くのです。

人間以外の動物や魚を観察しても疑いようのない事実ですが、食物を大量摂取する行為はそこから少なくとも数時間、頭脳も含めた身体諸機能を著しく低下させます。内臓器官をはじめ肉体負荷を絶やさず大きくし続けて、心身のパフォーマンスを常に落とす努力をしている方が大勢いらっしゃるわけです。

かといって私は、数日・数週間・数ヶ月・数年と長期の不食を薦めているわけでもありません。味覚の備わった肉体を有して生きているのならば、食事が日々の楽しみであるに越したことはありません。適度な運動や睡眠や性の悦びについても似たことが言えるでしょう。

私の持論では、快適な健康生活の秘訣は物質の栄養と非物質の栄養との比率を徐々にシフトさせ、バランスさせることにあります。人間の非物質エネルギー摂取とは、俗に【呼吸】と言われているものです。花や樹木や野菜や果物、つまり植物の生命エネルギーにもヒントがあります。

昨年、脳幹出血による意識不明の重体から意識が戻っても、産まれたての赤ちゃんと同レベルからのリスタートを余儀なくされた私は、医師の「修復されることはない」との言葉通り、今でも脳幹損傷部分の傷跡は物理的にそのまま…なのにもかかわらず、寝たきりのその時から一年未満の今、普通に話したり書いたり、なんとか移動もできる程に肉体機能が回復してきているのは、明らかに物質的な栄養によるものだけではありません。

明後日は「在り方としてのヨガ」を提唱する「カオン」さんとの【呼吸】をテーマとしたコラボイベント。
そこではもう少し詳しく解説いたします。