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生と死の意味
2017年04月24日

生と死の意味

先進国であろうと発展途上国であろうと、物質的な豊かさを求めて生きているほとんどの現代人はゴマカシ人生を送らされてきました。「それでも先進国と呼ぶのか?」というツッコミは別の機会にするとして、人生を晩年まで誤魔化すつもりで生まれてくる人はいないでしょう。物質界に生まれてくると親や先生など、既に人生を誤魔化して生きている人々に、大人と同じようなゴマカシ人生を送るよう強要されるのですから、子供にとってこればかりは致しかたありません。

このような内容の文章を書いていられる私は「人生に向き合ってはならない」という洗脳から逃れられたほうだったというわけですが、おかげで常に周りから疎まれる子供でした。社会人であった周りの大人たちは「死ぬとはこういうこと。よってこのように生きる」といった考えに向き合うことなく逃げ続けたゴマカシ人生を送っている…という自覚があるからこそ、私は困ったことを訊ねてくる子供だった(笑)。

養鶏所の鶏に大自然での本来の鶏の生き方を教えてもしょうがないし、現実的にその術もないでしょう。養鶏所の鶏は、人間に肉や卵を提供するためだけに生まれて成長させられ…それ以外に目的がないわけですから、子供にでもわかる理屈です。それが鶏でなくても、肉や卵ではなく乳でも内臓でも角でも毛でも皮でも、同じことです。

ところが、人間は死亡しても日本の場合なら骨の粉になるまで強火で焼かれるだけです。私は冠婚葬祭ビジネスが盛んな地域で育ちました。葬儀と結婚式を同じ会社が扱っているというインパクトも手伝って(笑)それらを生業にしている人々が存在していることもわかっていました。「毎日それを仕事にしている人もいるくらいなのに、人間の死というものをどうして大人は子供に語ろうとしないのか? それどころか、死に関心を示すだけでも大人が嫌がるのはナゼ…?」

中学生になってから気付いたこと。それは大人たちが隠していたわけではなかったのです。「知らない・答えられない」だけだったんですね(笑)。

今になって思えば、どんな大人も自分と同じくそこに疑問に感じていた時期はあったのでしょう。ただ疑問は疑問のまま放置しておいて、少なくとも現役時代はそこに触れずに誤魔化して生きている人が大多数であることが、良くも悪くも現代の経済社会を成立させているわけです。

同じく中学生になって新たに発見したことがありました。それは歴史や地理の資料を見ていてわかったことです。同じ家畜でも「犬・牛・馬・鳩・鷹・鵜」などは、人間が殺して食したり実用品として加工する目的以外でも、きちんと躾ければ生きてるだけで何かと役に立つ存在となる!という事実です。そこで俯瞰してみればわかること…

「とある存在」からしてみたら一般的な「人間」にもまさにそんな一面がある、ということです。中学生以降の自分にとっては、その「とある存在」が何なのかを突き止めたい!という欲求が最も人生を左右してきました。それが非物質世界探求へとつながってきているのです。

「陰謀論」というジャンル?があります。人間が馬や鷹を飼育することは、本来は自由に走ったり飛んだりできる馬や鷹にとって、はたして人間の陰謀に嵌ったということになるのか?…これは実に興味深い問題です。

犬をはじめとして人間に役立つことが生き甲斐であるかのように思える生物が、実際に存在します。それが人間であった場合でも「あなたは誰にも何の役にも立たなくてよいから、どうぞ好きなように生きてください」という状況が一生続いたとして「これこそが理想の人生だ!」と感じられる人はほぼいないでしょう。どれだけ物資に恵まれていたとしても、長く続くほどにかなり虚しくて辛い生活だと思うのです。

物質的な世のしくみをどんなに知ったところで、心の豊かさや幸せが付随してくるわけではありません。また非物質のしくみだけを探求したところで、肉体物質生活がすぐに向上するわけでもありません。非物質である意識存在でありながら物質肉体を有する人間にとって、どちらも重要なのです。

物質と非物質、双方の特性を上手く活かしたこれからの生き方を、臨死体験も通して得てきた私なりの人生論としてお伝えします。