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2018年7月
読書の素晴らしさ
2018年07月30日

読書の素晴らしさ

故・遠藤周作さんの「沈黙」という小説、サラッと読んだことはありましたが最近また新たに購入して熟読しました。

ここ千年以上この星の人間の営みを大きく左右してきた「宗教」というものがテーマです。

 

簡略に言うと、宗教が持つ性質である「自分以外の誰か(神)が、窮地に陥った正しい自分をこの世なりあの世なりで救ってくれるはずだ」という部分に鋭く切り込んだ作品です。

 

私の勝手な感想を書きますと、人間を家畜か家畜以下に扱って搾取している一部の人を除いては、「死に際か死んだ後に自分は報われるはずだ」と信じたくもなる生活を、いつでもどこでも皆が強いられてきたのがこの文明の特徴であり、それを「文明」と呼んでいること自体がおかしい… そんな自分の高校生頃の感覚が蘇りました。

 

しかし最も異なる点は「強く憤った未成年の若者であった頃と違って、今は感情がかき乱されることがない」というところ。それは、何十年も自分がしみじみ体験させられてきたことからも「わかりきった事である感」と、何よりも未熟な未成年だったが故に「自分ではどうすることもできない」と決め付けていた人間社会のあり方が、今では「少しずつだが変えることができる」という感覚になっていることです。

 

今時ならば異性を相手にする客商売やギャンブルみたいなもので、宗教のおかげで一時的に人々が実際に希望を抱いた部分もあったことでしょう。肉体死後に報われたのかどうかについては原則誰も答えられない、というのがこの文明最大の特徴ですが!笑

 

本を読むことすらない人々が増え続けている今の世の中ですが、筆者の感性や知性が見事に映し出される「書籍」とは、改めて素晴らしいものだと私は感じ入っています。

お読みになった方もいらっしゃるでしょうが、皆さんはいかがお感じでしょう。

人生の豊かさ
2018年07月28日

人生の豊かさ

「取り返したい」という想いを持つ事は愚かである、と私が考える理由を述べてみます。

 

普通の仕事に就いていて、パチンコ・競馬等の公営競技・宝くじなどで百万千万単位を貢いでいる人は驚くほど大勢います。そんな人たちに共通しているのが「取り返したい」との欲を持っていることです。

 

わかりやすく変換して言うと、失っている金銭等を「一時的に預けているだけだ」と自分の行為を勝手に正当化することを継続していると、負けた金額を預金しているような錯覚に本気で陥るのです。

ですから「今日はそろそろ預金総額から3百万くらい下ろせる頃だ」とかの更なる錯覚から益々大きな損失を平気で出すようになります。

 

ギャンブルに限ったことではありません。人間の面白い一面でもありますが、愚かなことを継続すればするほど「これは愚かなことだから止める」とは言えなくなって継続してしまうのです。おそらく自分の過去を自分で否定したくはないからなのでしょう。

そんな人間の性質を利用した金儲けが、この世の中いかに多いことか…

 

この世界では、何でもやってみなければわからないことが基本です、だって誰もが体験をするためにこの物質世界へとやってきているのですから。そこには現代社会で俗に言う成功も失敗もありません。見解によっては金銭を多く得たことで人生が失敗に終わったり、貧乏や病気なんかを散々経験できて早めに殺されたが故に肉体人生チャレンジ大成功だったりもします。

 

そこで私が考えるのは、それなりの期間を試してみた結果「これは違うな」と感じたのなら、体験の結果そう感じたことに充分な意味があると思うのです。何にしっくりくるのかは人によって異なるのも当然でしょうし、ある時期から突然何らかへの興味を失って止めてしまっても、それは全然自己否定ではありません。

 

誰もが日々生まれ変わっているのです。

 

継続しているから興味関心が続いている証拠かというと、そうでもないというのは上述の通りです。だから習慣や行動パターンからだけでは他人の価値観やセンスというものは意外とわからないものなのです。

 

「経験体験が宝」という考えの私からすると「人生経験の種類が少ないことは貧しい人生であり、得る宝も少ない人生」という解釈にもなります。幾度となく借金まみれになったりそのくせしてソコソコの贅沢をしてみたり、元気でヤンチャな子供時代から一変して近年は複数回倒れて臨死体験や植物状態まで経験させてもらった私は「人生の体験レンジが広い」ことは確実です。

 

でもそのような人生を「経験に恵まれた豊かな人生だ」と私が思えるようになったのは、割と最近のことなのです。

「死ぬのが楽しみ」という感覚は30年以上変わらず今でも持っていますが、「間違ってまだ肉体を維持しての人生が続くとしても、それはそれでよいかな?」という気持ちが、脳幹出血で死に損なって凄く不便な身体となってしまった近頃になって芽生えてきたのだから、人間の死生観とは不思議なものです。

グループセッションのご案内
2018年07月23日

グループセッションのご案内

様々な職種を経た後に経営コンサルティングを生業にしてきた私と、良くも悪くも生まれつきの霊能者である妻「西きほ子」と一緒にセッションをしてみませんか?

 

ハッキリ言って真逆の性質を持つであろう二人が同時にメリットを出し合うという、これまでにはどこにもなかったセッションです。

 

ここからは、一般論としてお読みくださっても結構です。

 

人の過去や未来が見える能力のある人に自分のことを見てもらった場合、それが「本当だ」と感じるからこそのショックを受けたり、根拠のない希望を抱いたりするものです。

しかし「この世界で何をどうすればそうなるのか」については漠然とした説明しかもらえないのが普通です。霊能者である本人もお客様の何十年分を隈なくじっくり霊視するわけではないため、そこは憶測するしかない部分がどうしてもあるのです。

 

逆にこの物質世界に限ったアドバイスのみを出す人の場合はどうでしょう。「それを止めろ」「これを始めろ」等々の「もっともらしいあれこれ」を伝えたところで、結果が出る保障は常にありません。

報酬さえもらえれば後は「結果を出さない顧客の責任である」との割り切りで商売をしているのが普通です。

これは何の業種についても言えることです。「痩せる」「もてる」「美味しい」「簡単に儲かる」「病気が治る」「環境に配慮」等々のきれいな売り文句を並べている商売のほぼ全ては、自分たちが儲けたくて考えているだけのことです。

それを堂々とやっていることが「文明社会」と呼ばれている経済第一主義の世の中なのですから…それができなければ「未開の人々」という扱いを受けてしまうのが、悲しいかな今の国際社会です。

 

私は若い頃から職を転々としてきましたが、その最大の理由はどんな仕事に就いても「こんな詐欺みたいな事を続けてまで生きていたくはない!」という想いが激しく湧き上がってきたからです。

わかりやすく言えば「心を殺してまで肉体を維持したくはない」「これならば自殺をした方がまだマシだ」というような感覚から逃避するためでした。

 

他に手段がなかったため、呆れる自分の社会経験を活かしてたまたま起業したのが「経営コンサルティング業」だったのです。しかしいくら自分で起業しようとも、現社会のルールに従いながらある程度は現代人の感覚に合わせて行かなくては成り立つわけもありません。

ですから「カネとモノが全てであると皆が勘違いしている文明下で、宗教ではなくて心の話をしながら自分も肉体で生きて行く」という若かりし頃の願望が今やっと少し実現しているのです。

 

ですから私は「この世界はなんて生き辛いんだ~」と感じている人の気持ちがよく解りますし、そんな世の中を生きるための知恵を提供する事に私自身が喜びに近いものを感じています。

 

次回のグループセッションは7/27(金)です。ピンと来た方は、お問い合わせだけでもお気軽にどうぞ

比較にならない人生
2018年07月20日

比較にならない人生

昨日の補足説明です。

「基本的に似た者同士が優劣や勝敗を競っている」という話でした。

 

身長や体重が何cm何kgかの違いで大騒ぎすることがあっても、仮に数トンとか数十メートルの違いならば論点が別になってきます。実際に身長十メートル単位の人間の白骨は世界各地で発掘されていますが、現地球人は発表を伏せて全てなかったことにしています(笑)。

 

似たようなもの同士の比較ならばいくらでも論議できますが、想像を絶したレベルの違いとなると人は不思議と黙してしまうものです。

論じる必要がある立場の人にとっても不都合なので「なかったことにしている」という色んなことが、どこのジャンルでも多く見受けられます。

 

この世の中はそんなことばかりです。

他にもわかりやすい例でしたら、月給差が十万単位ぐらいまでなら比較して悦に浸ったり僻んだりもするわけですが、月額報酬の差が仮に億単位だったら、もう比較対象にはならないわけで、なんとなく「別の世界の人」くらいの認識になってしまうのがオチなのです。

 

男女が一緒になるだの別れるだのとの面倒に巻きこまれて日々を重たい気分で過ごしている方もいらっしゃるかと思いますが、現代でもパートナーが大勢いて、自分の子供の人数を掌握できていない人だって存在しています。

 

多くの人が、たまたま自分に与えられた環境が全世界であるかのごとく錯覚した狭い視野で生きているのが実態です。空間的にも時間的にも広い視野を養えば、これまで自分が大問題だとしてきた事が実に局所的な視点でしかないことに気付くのです。

 

私は「あなたの問題なんて大した事じゃない」と言いたいわけではありません。客観的な問題というものがどこかに存在しているのではなく、「自分の思い込みで特定の問題を創造しているのが一般的な人の特徴というものである」と言いたいのです。

 

各々の問題解決のためにお金を払わせたい人が、問題山積であるかのごとく大衆に情報を流布している部分もあります。ですからテレビも新聞も雑誌も見ないで世間話を聞かないだけでも、大半の問題はなくなるでしょう。

でもそんな仙人みたいな暮らしを実現すること自体がそれこそ問題になりますよね?笑

 

ぶっちゃけた話、問題とは人の思考が創出しているわけです。それは言い方を変えると「思考を変えれば問題は消えてしまう」ということです。

 

とりわけ死生観が変わると最も効果的ですから、私は瞑想イベントを続けてきました。「人間は肉体で生きていることだけに価値がある物質である」という思想の囚われから解放されることで、肉体人生の自由度が断然増すからです。

 

肉体を粗末に扱うこともむしろなくなります。なぜなら非物質の自分がこの世で活動するためには、器となる肉体が不可欠だからです。

カネや名誉を手にしていても「どこかが不本意な人生だ」と感じているが故に、自分の肉体を粗末にしている人がとても多いと私は見ています。

 

暴飲・暴食・睡眠不足・過労・等々は、どれも無意識で自分をいじめてゲームセットにしたい欲求の表れです。しかし肉体死を迎えたところで、終わるのはあなたの本質からしたらほんの一部分の物質経験だけです。

 

そんなことをするよりも、自分が本質的に喜ぶ経験を楽しみながら肉体人生を送ることを石井はオススメしています。それが何なのかは人によって実に様々です

比較してしまうのは
2018年07月19日

比較してしまうのは

「相対の世界を超越する」って、どういう意味なのかわかりますか?

 

誰しも何事に対しても快適ゾーンを持っています。それは生活習慣から自然と培われてしまうものだと私は考えますが「快適だとする基準を離れると不満に感じる」ということです。

 

それは裏を返すと、快適ゾーンとの乖離が著しく大きいと、もう「快適・不満」の問題ではなくなってしまう、ということです。例をあげてみましょう。

 

自分の快適気温(室温)が20℃だとすると、30℃では暑く、10℃では寒く感じるわけです。しかし、年中50℃の気候で暮らしている人からしてみれば30℃は涼しくて快適、マイナス10℃に慣れきっている人には10℃でも暑くて不快だったりするのです。

ところが仮に100℃やマイナス100℃の状況下になれば、普通の人間ならばすぐに失神や死亡をするわけです。

 

温度は健康問題や生存安否にもかかわるテーマですから、あまり実験したり極端な考えを持つことは止めておきましょう(笑)。

それでは「恥ずかしい・怖い」などの感情が湧くことについてはいかがでしょう。

 

人それぞれに「これは恥ずかしくてできない」「それは怖いから回避しよう」「そんなの絶対に無理」などの基準があるわけですが、法律で定められているわけでもないケースがほとんどです。基準が人それぞれに設定されていて、多くはそれらが変更されることのないまま長年の判断基準となっているのです。

 

自分で「そんな恥ずかしいことはできない」「そんな恐ろしい危険は冒せない」「自分には不可能だ」と勝手に決めている基準には、実は呆れるほどの個人差があるのです。

例えば10人の前に出て話をすることが一大事の人もいれば、100人の前で話すぐらいでは物足りないという人も実際にいます。

 

これは「怖い」「恥ずかしい」と感じる基準が長年変わらない人が多くいる一方、人生の途上で自分の限界基準をどんどんスライドして行く人もいるからです。自分の中の警告ブザーがやたらと鳴る人が多いのですね!笑

 

それをブーブークッションぐらいの扱いにできれば、失敗しても大半は笑って済まされるし、自分も上限なく成長できると思うのです。

 

近年、私はその顕著な例を自分自身であれこれ体験しています。

近況連日の猛暑は、雪や凍結にも馴染みのある日本で暮らす皆さんにとって凄まじいものがあります。普段は健康な人でも倒れたりするわけですから、二年前に脳幹出血で死に損なって一時は植物状態となった私にとっては10分の散歩でも大旅行です(笑)。

 

それでもリハビリペースを落としたくはない私は、今朝も公園散歩に出かけました。飲食店で充分な休憩をとってから、ネットでなくリアル書店を無性に訪れたくなったため、汗だくになって中古大型書店に徒歩で立ち寄り、文庫本を数冊買って帰りました。

 

汚い話で恐縮ですが帰ってから汗だくのズボンを脱ぐと、自分の下着が汚物まみれになっていたのです。2年前の意識が戻ったばかりの頃は全身の感覚がなかったので介護パンツも履いていましたし、よくあった事なのですが、皮膚や筋肉の感覚が徐々に戻りはじめてからは滅多になくなった事です。

 

あまりの暑さで肉体感覚が麻痺したことに重ねて元々が汗でヌルヌルビチョビチョですから気付けなかったのです。2年以上前の健康な自分でしたら、その情けなさやらマヌケさから怒りが込み上げてきたのかもしれません。

 

しかし極めて切ない経験を「これでもか!」としてきたこの2年間で私の許容量は格段に上がりましたから、他人のコントを観ているみたいに我ながらそのマヌケさに笑いが込み上げてきました。

 

添付の写真は最近のものですが、私が倒れた日に誕生した息子を抱えてテレビを見ている様子です。

退院後すぐの私にとっては息子を落とさないで抱えること自体が高度な技でした。視力もほぼ失ったので、肉眼をテレビに向けてもビジョンは捉えられませんでした。それが二年近く経った今では、必死にがんばらなくても自然と息子を抱えてテレビが見れるくらいにリハビリが進んだわけです。

 

何でも比較の問題なのです。リッチそうな暮らしをしている人と比べて自分を蔑む、辺りが飢え死にしている地域の人と比べて自分が恵まれていることに感謝する、どちらにしてもその人の自由です。

 

私は歩けるようにはなりましたが自転車には乗れません。でも自転車に乗って楽しそうに遊ぶ小学生を羨んでいても何も良い事はありません。

ただ車椅子を見かけた時に「自分もベットから車椅子に移してもらうことが大変だった時期に比べると、随分と進歩しているなぁ」と感じることで私は喜びや達成感を味わっています。

 

下を見て自分を慰めろ!ということではありません。何を比較対象とするのかで自分のポジションを皆が自分で決めている、という意味です。僅かな違いを理由に一喜一憂することも、その人の自由ですしね。

 

それらを飛び抜けた領域を経験すれば、似たり寄ったりの人々が勝敗や優劣を問題にしていることがバカらしくなったりもするのです。いずれにしても、比較できているうちは似た者同志だということです。

 

似た者同士が集まることで安心する傾向が地球人全般にあるようですから、受験戦争でも出世競争でも国家間の戦争でも、残念ながらなるべくしてなっているのですね。

 

「それはおかしい」と感じている似た者同士が、私の発信をきっかけに仲間となることも面白いなぁ、そんな風にも思っています。

 

 

【波動体験会】ご報告
2018年07月14日

【波動体験会】ご報告

今日は第14回目の【波動体験会】開催日でした。

 

参加者それぞれの体験する異次元が「かつての文明系」「パラレルワールド系」「水中系」「地中系」「空中系」「不明系!笑」とレンジが広く、いつもにまして楽しくて刺激的な会となりました。お集まりくださった皆さん、どうもありがとうございました。

 

私の話はいつもと同様だったと思うのですが、注意深く聴いてくださる方が多く、普段よりも心地のよい疲労に浸かってこれを記しています(笑)。「どこの世界へ行っても龍の出没率が高い」というのが今回の特徴でもありました。

 

お客様の異次元レポートにはそのまま映画の脚本にもできるようなストーリーが何本かあって、おかげさまで導かせてもらった私自身や耕平さんや妻の西きほ子にとっても満足感の高い会となりました。

 

これからも、私たちにできる手法で非物質世界の認識を普及させて行きます。これまでの皆さんもこれからの皆さんも、どうぞ宜しくお願いします!

勝敗をこえた価値観
2018年07月09日

勝敗をこえた価値観

大雨によって西日本を中心に死者が出ていることが報道されています。ニュースでも常に注意喚起を呼び掛けていたようでした。亡くなった人をはじめ大勢の生活に支障が出ている現状に全く無関心でいられる人は少ないでしょう。

 

こういった事態が起こると常に強く感じることが私にはあります。

 

自分が大雨を降らせたり崖を崩したりしている自覚がある人は原則としていないでしょう。つまり、自分が加害者となる可能性がないと判断する事柄に対しては「大変だ・気の毒だ」とか、堂々と言えるのです。

 

飛行機が墜落して死者が出ても、飛行機を造ったり売ったり操縦したりで稼いでいる人は多くはないので、全般的には事故を追及しやすいのです。

 

ところが自動車による死となるとどうでしょう。自動車産業に携わる人の数は膨大です。それが直接的な稼ぎの種ではないにしても、店に陳列されているどの商品だって自動車で運ばれているでしょうし、日常的に自動車を活用している人は田舎になるほど圧倒的多数です。連日どれだけの死者を輩出して健康被害を及ぼしていようが、それを廃絶されたら困る人たちが大勢いれば悲しいかなそれは継続されてしまうのです。

 

自分も殺人マシンを活用しておきながら、他人には「危ないからそれはダメだ」と言えるはずがありません。たまたま自動車を例にとりましたが、世の中のあらゆる事柄がこのような構図から抜け出せないでいるのです。

 

原発で潤っている人に権力者が含まれているのだったら廃絶するわけがありません…仮に何億人死のうが自分の懐が潤うことを優先するような人が権力を握ることに興味があるのですからね。

地球の現文明から戦争が無くならないのも当然のことです。見方によっては大量消費と大量生産を確実に促進するおいしい商売なのですから(笑)。

 

平和や愛を好む人は金銭や権力には無関心な傾向があります。きっと組織にも属したがらないでしょう。一般の企業に限らず、そこでの構造の上層に上り詰める人は決まって「敵・味方」「勝った負けた」等、今の地球文明独自の価値観をちゃんと有している人です。

 

地球上のどんな組織や団体に期待しても、残念ながら「この文明では争いや搾取が基本である」ことを思い知らされるだけなのです。

 

しかし本来、人間としての個人の価値観は誰からも自由なのです。「不本意でも多数派に巻き込まれなくては生きて行けない」という錯覚から抜け出しましょう。

 

現状では生活習慣をある程度社会に擦り合わせて行く必要もあるでしょうが、かといって自分の根本的価値観を捻じ曲げる必要はないのです。

 

生活を成り立たせながらも心を歪ませない、これはそんなに難しいことではありません。それが多数派になった時、自ずと人間社会は大きく変わるのです。

 

結局、鍵は個人にあるのです。

異次元の認識
2018年07月08日

異次元の認識

人は誰でもリラックスさえできれば数分で異次元を認識します。完全な睡眠状態ではないので「そのリラックス状態に導くことが難しい」というだけです。

 

高次元波動体験会ではそれを試みていて、実際にうまく行っています。参加者の皆さんには異次元で見えたり聞こえたり感じた事をご報告いただくのですが、複数の参加者にも同時に聞かれてしまうわけですから、表現を躊躇される傾向がどうしてもあります。

 

ただ、単独ではなく複数人同時に次元移行する場合の相乗効果は毎回思いのほか大きく、私の話だけではなくて他の参加者の体験談をも耳にすることが参加者の参考になったり不安の払拭になったりもするため、わかっていながらも敢えてそうしているのです。

 

「もっと踏み込んだ個人的異次元情報を入手して、それを人生に活用したい」とのニーズにお応えできる、個室での瞑想セッションを近頃はじめました。ドップリ踏み込んだ話も難なくできます。石井の話での誘導だけでなく、妻である西きほ子の霊視でもサポートいたしますので、エネルギーバランスを考えてお客様も一回で2名ずつです。

 

既に金曜日に3回実施しましたが、おかげさまで好評です。来週末は元々の高次元波動体験会が新橋でありますので、次回に限り7/10(火)正午からの開催です。ご都合のつく方、遠慮なくお問い合わせください。

 

 

「霊能力」とされているもの
2018年07月07日

「霊能力」とされているもの

「霊能力」と聞くと、一般的に特殊な能力だと思われています。ごく一部、そのような能力が重宝がられている場合もありますが、家族や身近に霊能力者がいたら気持ちが悪いとか不都合を感じる人の方が多いでしょう。

 

常日頃死んだ人と会話していたり、自分に隠したい事があっても何もかもお見通しだったり、どんな嘘も全部バレバレになってしまう人とずっと一緒にい続けたいと考える人は少数派でしょう。

 

しかし私に言わせれば、人間である限り誰もが霊能力者です。その能力に違いがあったり自覚のありなしに随分と個人差があったりすることは、何を例にとっても同じです。

それを「霊能力」と括っていないだけで、例えば知らない人が見たら「霊能力以外の何ものでもない」というようなことを仕事にしている人は、多方面でいくらでも見かけられるものです。

 

「UFO」という単語が、現代地球人が広く製造操縦している原始的飛行物体を除く全ての飛行物に当てはまってしまう…このことと同じですね。未確認飛行物体の事をUFOと呼ぶのですから、皆さんがよく知っている飛行機やヘリコプターは全て、江戸時代の人に言わせたらUFOです。

 

私、セイジョウ石井が常々話しているように、人間の大部分が非物質で、肉体は人間の中のほんの一部分です。その肉体を使って話したり書いたりしている中身は、合っていたとしてもその人の性質の僅かな部分だけです。何らかを飾ったり偽ったり隠したりしていることを考慮すると、読んだり聞いたりしたことの中にその人の中身が1%も表れていない場合だって十分にあります。

 

「私のことを理解してほしい」とか「私のことを誤解しないで」等の表現がありますが、そもそも肉体人間で自分自身を誤解しないで理解している人自体がほとんどいないのです。ですからカネを稼ぐことを筆頭に、人間社会の営みは原則ほぼ虚偽なわけです(笑)。だからこそ人生ゲームはオモシロイ!?

 

睡眠中は誰もが非物質活動をメインとしています。ただしそれ(夢)を正確に記憶できる人が少ないため、せっかく毎日本質に戻れていてもそれを肉体生活に反映できないのです。

 

ですから私は「瞑想を通じて、人間の本質である非物質活動を肉体生活へも有効活用しましょう」というスタイルのイベントを継続しているのです。

 

この記事を書こうと思い立ったのは、写真のように一歳の息子が私の睡眠中にほぼ毎晩ベッドに上がってきて一定時間寄り添って降りて行くからです。私はずっと「何をしているのだろう?」と思っていましたが、ザックリ言うと「どうやら私の夢を覗きに来ているらしい」との結論に私が達したからです。

 

女性に多いのですが、「それは嘘だ」「あれは演出だ」「これは本気だ!」などとなぜか直感してしまう人は世の中に意外と大勢いらっしゃいます。男性的に言うのなら、それらには科学的根拠がないので(笑)霊能力みたいなものですよね。いちいち指摘はしませんが私のセッション中にもそういうことが良く起きます。

 

本来それらは人間の誰もが有する能力であると私は考えますので、皆さんのその部分にもっと磨きを掛けようとイベントをしているところもあります。そのようにしてイジョウな人間社会をセイジョウなものに戻して行こうと私は試みています。

 

詳細な情報は常に妻(西きほ子)が発信しています。ご興味のある方はぜひともご覧ください。

本性を隠す生き方
2018年07月05日

本性を隠す生き方

人は皆、ほぼ誰でも隠し事をしているものです。それがばれたら大変な犯罪行為なのでしたら納得ですが、知られたところで別にどうこう問題にされることもないであろう趣味嗜好を、多くの人が隠し持っていたりするのです。私自身も若い頃には特にその傾向がありました。

 

取り柄の趣味や好きな事何かを活かして収入源を作りたいのであれば、「失敗を恐れるな」「恥をたくさんかけ」「嫌われることを避けようとするな」等々のよくある助言が多く当てはまります。しかし生計を既に他の何かで立てているとなると途端に皆さんあまり認知されたがらない場合が多いようです。

 

これらについて、少し一緒に考えてみましょう。

 

私は十代初期でイジメを受けた頃から40歳頃まで、ずっと自殺を検討していました。それは特定の誰かではない人間という生物全般の愚かさや醜さをしみじみと感じてしまい、自分もその人間でいること自体がつくづく嫌だったからです。

しかしどう考えても自分だけが死んだところで、特定人物へのイヤガラセにはなったとしても、それで人類全体が賢く美しくなるわけではありません(笑)。

 

十代の初期から「人間の生死」みたいなものを探究してきた結果、私は心待ちにしていた肉体死に価値を見出せなくなりました。人の本質が非物質存在だということが解ってくると、物質肉体での生死が些細なことに思えてくるからです。つまり非物質的には「死」というものがなく、人間が肉体死を迎えたところで何も解決はしないということです。

 

だから肉体死を無闇に怖れたりすることと同じように、肉体死を特別な楽しみにしていること自体もナンセンスだと感じるようになってしまいました。

 

どんなに死を怖れていても死期は遅れないし、どんなに楽しみにしていても死期が早まることはなく、死んで当然の状態にまで陥っても死なせてもらえない私のような人がいたりするのです(笑)…それらを寿命と呼ぶのでしょう。

 

何故こんな話になってくるのでしょう。それは、現代の日本社会ではごく少数の「スピリットを肉体で生きる人」と、大勢の「できるだけ物質の獣に近く、もしくはマシンとして生きる人」で成り立っているという前提で私は人間社会を捉えているからです。

 

前者は日本を出て生き生きと暮らしているか、日本で長年苦しみ抜くか、だいたいどちらかのケースが多いようでして、何の業界にしても自分の特性を自然に活かして収入を得て、生き生きと暮らしている人ともなると本当に希少かと思われます。

 

私がイジメに遭った理由でもありましたが、組織に属している場合、専門職でない限り「特に何もできない・特に何をしたいでもない」という無個性無能力をアピールすることが重要な時代が長かったのです。そうしておけば、好かれることはあっても嫌われなくて済むのです。どうしてそんな不思議な法則があるのでしょう?

 

悲しい話ですが、今時の人は皆が相対的な比較のなかで一喜一憂して生きています。一般的に子供時代は自分の可能性を信じて何かに打ち込んだりもしますが、思春期頃にもなってくると「現実問題、自分には無理だ」と思うことが増えてくるのです。

 

そこでまだまだ伸びそうな何かを見出していたら、特殊な業界での活躍や個性的な生き方ともなってくるのでしょう。しかし概ね何も思いつかない人が組織に属して生きて行くことを決めるのです。

 

つまりは大きな組織に属して働いている人は、原則自分がそれをやりたくてやっているわけではありません。ただ今ぐらいの暮らしが維持できれば良いと考えていたり、お金がもらえる他の何かが特に思いつかないだけです。組織は大よそ減点制です。変わったことをして目立ってしまっては出世が遠ざかってしまいます。

 

ここで重要な話に入ります。大抵の人は向上心を失ってからでも小さな世界に閉じこもって相対的な比較で生きています。そして寂しいことですが、自分が向上しなくても相対的に優位に立つためには「周りを貶める・利用する」しかなくなってしまうのです。そうでなければ常に自分をヨイショしてくれる人のお世話になるとか…(笑)

 

何歳になっても、向上心がある人は起業したり結婚離婚を繰り返したりで忙しくしていることが多いです。同じ組織に何十年も属していれば、イジメ先を探すのに忙しい人が大勢います。有能な脱落者を増やして何もできない人ばかりで周りを固めることがマジメな生き残り戦術なのです。組織下にいる誰にとっても自分より有能な部下とは扱いにくいものですし、有能な上司も苦手でしょう。

 

「思わぬ特技があった」とか「高尚な趣味を持っていた」とかは、元々が有名人でもなければ誰かの餌食になりやすいだけの話です。「黙っていた方が得をする」それがまさか小中学校の社会にも存在していたとは思いつきもしなかったほど、私は素直で正直で社会性の低いバカな子供でした。

そのままではどうせ社会に出てからでもイジメられていたことでしょうから、イジメに遭ったのはなるべくしてなったことです。

 

大きな組織に属していなくても、自分以外の誰かを悪く言っていたところで何も変わりません。「それが今の人間の主な性質だ」というだけのことです。起業しようが、放浪の旅に出ようが、組織でがむしゃらに働こうが、幸い今の日本国では自由に選べます。

一見は嬉しくない現象として、学生でもないのに働きもしない人の存在も広く認知されています。女性なら「家事手伝い」という言葉が昔からありましたが、男性も… 良くも悪くも凄い社会変化です。

 

正直、平然とした顔をしている大人でも困惑している人が実に多い時代です。新たな展開は誰に依存していても叶いません。

 

すべては自分がどれだけ意識変革できるのかにかかっているのです。私はその意識変革のきっかけづくりや変革サポートを、これからも精力的に進めて参ります。