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2018年6月
胎児への影響
2018年06月28日

胎児への影響

写真のミニカーたちは全ていただき物ですが(笑)一歳の息子がどうしてこんなに車のオモチャを好むのかが不思議です。少なくとも近年は両親共に車は乗りませんし、せがまれたら付き合いますが図鑑や雑誌をこちらから見せたこともありません。

 

小学生以上にもなれば「デザインがカッコイイ」「異性にモテそう」「機能が凄い」「乗り心地が」等の理由で興味を持つのはわかるのですが、乳児の頃から・・・謎ですね。

スピ好きな人なら「過去生で…」とか言えば盛り上がるのかもしれませんが(笑)私はこれについてある見解を持っているのでここに書いてみます。

 

お腹の大きかった妻の出産予定日に私が意識不明の重体となったため、息子は妻と私と一緒に救急車で運ばれてから数時間で産まれてきたという経緯があります。ですから、乳児の時から救急車に対する興味が絶大だったのは偶然とは思えません。

 

「出産前に乗ったのだから関係ない」と思う人が多いでしょう。それを言ったら出産後の赤ちゃんの視力や聴力だって怪しいものです。ですから私が考えるのは「胎児は肉体五感以外を普通に使って世界認識しているのではないか」ということです。お腹の中では皆がサイキックというような意味です。

 

妊娠中の母が体験していることを、肉体としてはまだまだ生育中、その不完全な肉体の器官を通さずに、非物質の自己で色々と認知していると思うのです…だとすると辻褄が合うのです。

 

妻は息子がお腹にいる間にも車がよく通る道を歩いていました。それで、息子は産まれた瞬間には既に様々な自動車と半年以上の馴染みがあるのです。外界に出る直前に乗った車は特に印象的だったはずです。

 

私が注視しているのは胎児教育の影響の大きさです。厳密には文字や作法を教え込むわけでもないですから「教育」ではありませんが、人としての感性は胎児の間にもだいぶ養われているように感じます。

大人のように肉眼や鼓膜で情報収集するわけではないですから、想いや気持ち等の波動で多くを感じ取っているのです。

 

わかりやすく言うと、妊娠中の母を中心にどんな気持ちで何を感じてどんな音楽を聴いて何を食べて… それらの発している波動が重要なのです。

現代はそこに無頓着な人が多すぎるのではないでしょうか。

生きる楽しみ
2018年06月27日

生きる楽しみ

あなたが生きている楽しみは何ですか?

 

どちらが良いわけでもありませんが、この質問には即答できる人と考え込んで答えが出ないタイプがいると思います。心の中には答えがあっても「他人に説明することではない」と感じていたりで本心ではない事を口にする人も多いことでしょう。

 

すぐに叶う願いはあまり「生きる楽しみ」とまではならないでしょうから、やはり「長期スパンで叶えたい、簡単には叶わない何かがあった方が生きて行く楽しみになりやすい」という傾向は総じてあるのです。

 

この世のあまりの生きにくさから、若い頃から私は「肉体死を迎えること」を最大の楽しみにしていたところがありました。何時なのかを別にすれば、誰でも人生最後には必ず叶う望みです。しかしそれだけに「自殺は反則だ」とも、強く自戒していました。

 

購入したい物の資金がなかなか調達できないからといって「だったら盗めばよい」というのが反則扱いなのと同じです。非物質的には「死が存在しない」のですから、重罪や自殺は自己に新たな歪みを生じさせるだけだと私は考えています。

 

50年近く生きていて肉体死のチャンスは何度か訪れましたが、今のところ最大の機会は一昨年前の脳幹出血でした。視聴覚をはじめあらゆる感覚を徐々に失って行く過程で「ああ、ついに私にもその瞬間が訪れた」と感慨深かった記憶は明確にあります。全く痛くも苦しくも辛くもなかったです。

 

肉体意識を失っていた間は、この世界だとしたらいろんな時代や地域かと憶測されるあらゆる状況下で忙しく活動していました。しかし後日、全身がしびれて激痛が走る特定の肉体に閉じ込められてしまいました。この肉体意識が回復したのです。

 

ゲットして当然のチャンスを逃しただけでなく、皮肉にも断トツ不便になった身体で余生を過ごすことが決まってしまったのです!笑 せめて歩けて話せる身体になるためのリハビリに専念しているうち、あっという間に二年弱が経過。

 

私は「肉体死のタイミングは地上の人間では理解できない何らかによって定められているのだ。望んでも避けたくても叶うことではない」そう開き直って受け止めました。だから自分が不便な身体に宿っていることにも憂鬱は感じません。

 

私がこれまでに得た体験や知識などを日々発信することができる身体には既になりました。

奇しくも私が倒れた日に誕生した一人息子と肉体で接しているだけで、今の私には充分な楽しみです。

変化への抵抗感
2018年06月21日

変化への抵抗感

人間には大きな変化を怖れる傾向があります。それは何故でしょう。

 

現代人の多くは「これまでの蓄積」を重視して生きています。これは行き過ぎると「常に過去に生きている」とも言えるわけですが、「どこの学校を出た」「○○の国家資格を取得した」「どこそこに勤務した」などの過去の蓄積が、自分がどんな人間であるのかを証明している…ざっと平たく言ってそんな考え方です。

 

すると、過去の自分ならばそうしないであろう事を言ったり行ったりすることが、過去の自分を事実上否定しているように思えてくるのです。そんなきっかけを自分からわざわざ誘引したくはないから、これまでの価値観や行動パターンが変わってしまうかもしれない物事を、単純に「怖い」と感じて避けているのです。

 

常に今に生きているのなら、言うことや行うことがコロコロ変わることにもなります。でもそれは別に過去を否定することが目的ではありません。常に工夫や改善をしているのです。個人でも法人でもそのような柔軟性があれば存続できますが、「それが慣習だから」というだけの理由で同じような事を繰り返しているようでは時代の変化にすぐに適応できなくなるでしょう。

 

ですから今はむしろ「大きく変化できないことが怖い」時代なのです。にもかかわらず人生の舵を大きく切ることが出来ない人は、益々困った状況になって行くでしょう。そして最期には大きな変化を受け容れざるを得なくなるのです。

 

行動だけが変わるとしたら、それは強制的な指示に基づくものです。しかし考えや気持ちが変われば行動も自ずと変化します。それは過去の否定でも何でもありません。

 

例えばシェフが突然和食の料理人を始めたとしても、それは長年続けてきたフレンチなりイタリアンなり中華なりを否定するためではないのです。何をするにしても、大切な事ほど人目を気にしすぎていては上手く行かないものなのです。

 

あなたの人生の責任を取ってくれるわけでもない人の目を気にして、いったい何になるのでしょう。

もしも望まれるなら、私は定期的にお話をするだけで人生変化のお手伝いすることを得意としています。

自意識過小
2018年06月20日

自意識過小

「自意識過小」とはどういうことなのか?と思う人もいるでしょう。

 

簡単に「自意識」といっても、実は何を指しているのかが人によってだいぶ認識の異なる言葉なのです。これについては唯物主義の人が最もわかりやすくて、肉眼で見える鏡に映る自分の姿、肉体の形状が自分の全てであって、そこには服装や髪型も含まれるでしょう。

 

ところが何かの作品を通して自分を表現しているような人の場合、ファッションなど自分の肉体の見てくれはどうでもよいというタイプの人が増えて、作品こそが重要となります。

 

意識が拡大したまま収縮できないとなると、他人事や地球の異変も自分の事として捉えるようになってきます。これには弊害もあって、遠くで悲惨な人災や天変地異が起きると被害者ではないはずの自分までが苦しくなってしまいますし、今の地球文明においては年中暗い気持ちで暮らすことにもなってしまいます。

 

更に意識が拡大して、地球以外の星や生物(非物質を含む)に常時意識がフォーカスされているならば、大抵は精神異常のレッテルを貼られたりして地球上で普通に暮らして行くこと自体に問題が出るでしょう。「鏡に映る肉体だけが自分」だと考える唯物主義者からしたら「この人には自意識があるのだろうか?」と疑問にすら感じることでしょう。

 

ここまで書けばもうおわかりですね。上述の下部になるほど「自意識過小」となって、獣の属性も備える肉体人間として生き難くなる、ということを私は経験上語っているのです。私の場合は上述のそれぞれを幼稚園、小学校、中学校、高校で経験した感じです。ですから最終学歴の高校を卒業してからずっと肉体で生きる難しさに直面しながら、三十年以上かけて割り切りと言いますか使い分けができるように努力してきました。

 

その甲斐あって、必要であれば「よくいる普通の人」もそこそこに演じることができ、自分主体の場ではそこそこの本音を交えて暮らしてきましたが、皮肉なことに2年前の脳幹出血での小脳損傷で「よくいる普通の人」を演じることは不可能となりました。混んだ電車も自転車も乗れません(笑)。

 

私がお客様の年齢・性別・職業・立場を問わず、あらゆるタイプの方々を受け容れてアドバイスができるのは、「地球上で自分が散々な目に遭ってもそれらを切り抜けて生きてきた過去があったからこそ、今となってそれらの知恵が活かされているのだ…」 我ながらそう思います。

 

今でも基本は「自意識過小」な私ですから、私の死に損なった当日に生まれた子供ももうすぐ2歳となった今では「もっとちゃんと自分を売り込んで稼げ!」と周りからも強く思われているようです(笑)。

 

ご相談があっても、すぐに私から飛びついてどうこうしようとすることはありません。お客様にとってはどんなに「変」だとか「恥ずかしい」と思えたにしても、人間の持つ悩みや苦しみは本質的に同種です。

 

遠慮なく何なりと私にご相談ください。人間関係の問題が実績としては豊富です。

 

 石井 数俊 (セイジョウ石井)

「期待」とは
2018年06月19日

「期待」とは

期待はずれでがっかりした経験は誰にでもあるでしょう。私も若い頃はよくありました。

 

しかしある時期に気付いたのです。今までの自分の期待とは「自分に有利に物事が展開するのを予想している」だけだと。「自分がラクして通過したい・自分には追い風が吹く」などと、自分に都合の良い憶測をしてるから、しょっちゅう期待が裏切られた気持ちになるのです。だから私は特に何も期待することがない数十年を過ごしています。

 

「誰にも何にも期待していない」なんて語ると、冷淡で寂しい人だと思われがちです。しかし、全くそんなことはありません。

むしろ何があっても誰かや何かのせいにすることがなくなって、些細なことでも喜べたり凄く得した気分になったりすることが頻繁となったのです。それに、期待がなくても常に予感はあります。

 

自然現象をはじめ、自分以外の何かや誰かをコントロールすることは原則できないし、してはならないと感じます。他人を恐怖でもってコントロールすることができたとしても、それは一時的なもので、かえって歪を溜めてしまい、それがいつかは爆発するのです。

 

企業でも国家でも自治体でも、人が集まる組織では属している者を制御する必要があるため、上述の手法を使わざるをえません。

「身が危険に晒される」「もらえるはずの報酬をもらえなくなる」「恥をかかされる」「罰金を払わされる」等々の事態を避けるために不本意でも指示に従って、見えないところで愚痴って発散する…良く見られる光景です(笑)。

それを上手にできなければ内臓疾患や精神異常を招いたりもするわけですから、それもそれで必要な行為でしょう。

 

人は一人きりでは生きて行けません。それは事実ですが、属した組織の都合で一緒に居合わせているのと、自分たちの自己都合で関係を築いたり解消したりする人間関係とでは、同じようでも実質まるで違うわけです。

「そこをどう捉えるのか」の個人差が著しく激しい時代に入ったと感じます。

 

「若い新入社員が飲み会や社員旅行などを断る」等の事例も、良し悪しではなくてその辺の問題だと考えます。お上が望むことならば、誰もが自分が死ぬことを百も承知で戦場へと敵国の人殺しに出向いていた時代があります。今ならそうはならないでしょう。時代錯誤の人が一部いるというだけのことです。

 

そこでも「自国が戦勝する」という期待や願望が、国民の皆にあったのだと思います。私はスポーツが好きな少年でしたが野球でもサッカーでも、自分がプレイヤーでもないのに勝敗をめぐって大騒ぎする観戦者にはいつもゾッとします。暴動もたまに起きますよね。「ファン」と呼ぶらしいですが、期待や応援の気持ちが敵を害することに繋がっていることが不思議です。子供の頃から私は「誰かに決められた仕組みを運用しているだけでこんな風になってしまうんだ」と疑問でした。と同時に、戦争という大量殺戮ゲームを好んで実践する大人たちが多いのもわかる気がしました。

 

何を言いたいのか… 人間はいつの間にか簡単に洗脳される生物なのです。(洗脳のことを「教育・布教」という言葉を使うのが一般的です)

 

誰かの意図に沿って行動するのはマシンだけで充分です。知的生命体人間としてはイジョウです。

縛りの多い環境下では難しいかとは思いますが、皆がそうしていたとしても、自分が「おかしい」と感じるのならば自分までおかしなことを実践しなくても良いのです。それが本来の人間だとセイジョウ石井は考えます。

賢さとは臨機応変さ
2018年06月17日

賢さとは臨機応変さ

機械化が進む現代社会においても「クローン」や「遺伝子操作」呼ばれるものを、特に人間に当てはめることには抵抗を感じる人が多いみたいですね。その違和感はどこからくるのでしょうか。

 

平たく言えば、それは「人間というものが(人間が摂取するものが)人間の手によって機械のように製作されたり操作されたりすることは自然の理に反する」と感じるのが人間らしさとも言えるからです。それがどういう事なのかを考察してみましょう。

 

出産育児等で見られる「増殖」というものは、「人間をはじめとする生物も所詮は機械みたいなものだ」と考えたくもなる要素が多分にあります。「DNA」という単語を知らない人がほとんどいないほど普及している今日です。

 

生物の設計図とも呼べる遺伝の仕組みを探究すればするほど、今の人間には理解できない奥深さがあるけれど、プログラムが機能しているのは事実なのです。実際に、一歳の息子は自分の幼少期の写真にかなり似てきているのですから(笑)

 

ところがそれは物質肉体としての話です。非物質の、俗に「霊」「魂」「スピリット」などと呼ばれるものについての解明は現地球文明においては非常に遅れています。物質の複製や操作はいくらできたって、人間の本質である非物質のコントロールができていない現地球人が生き物の操作をできるわけがないのです。

 

そのことを、多くの皆が潜在的に感じているということです。

 

生物が「単なる物質」だと誤解している科学者が物質的に操作したところで、できたかのように勘違いしている生物操作には莫大な弊害が潜んでいるのです。それはこれから著しく表出してくるでしょう。

 

「霊」や「魂」と呼ばれる非物質面を重要視して解明できれば、肉体的な不具合の解消や未然予防がもっと簡単にできますし、そもそも肉体障害や長寿も早死にも大した問題ではなくなります。

 

人間として生きていながら最も人間を理解していない人が評価されて優遇される傾向のある現文明社会です。それを知っていながら、自分もわかろうとしない人や自分を曲げて生きている人が多いようですね。それを私は「知的」じゃなくて「愚か」なのだと言っているのです。

 

そんなことばかり語っていたら生活が成り立たない、と思う人もいるようです。「知らないのに知った顔をして」愚かさを重ねるよりも、訓練は要りますが「知っていても知らないように振る舞うことが適宜できる臨機応変さ」の方が賢い行為だと私は思います。

 

これを応用すれば誰だって、どんな生き方だってできるものだと私は思うのです。

大っぴらに発揮しない事であっても、知っていれば多くを得る …そんなものだと石井は考えます。

星のバランス
2018年06月10日

星のバランス

同じ事柄に対してでも、何を優先するのかによっては長時間熱心に打ち込んだり、逆に関与するのもイヤだったりする…誰だってそんなものだと思うのですが、改めて考えると不思議なことですよね。

 

例えば私の場合、特に健康を気遣う必要がなかった時期には行くこともなかった近所の公園数ヶ所に、今ではほぼ毎日数時間かけて歩きに出ているのです。

 

これは「何とか歩いて移動できる肉体を作って維持したい」という強い欲求があるからできるわけです。深夜早朝の私の状態は、近況でもベッドからトイレまで倒れずに移動するのが精一杯で、リハビリを数日もサボればそれもできなくなってしまう身体なのです。

 

40代で寝ながら糞尿を漏らしたり、自宅での転倒が原因でもっとおかしな身体になることを避けたいのならば、小脳損傷による身体機能の低下を進行させないようにコツコツとリハビリを続けるしかないのです。その甲斐あって、今ではタクシーや空いた電車やバスを利用して一人で移動ができます。

 

乗り物を使わないで何時間かを歩くという行為を健康な時期には「疲れる・時間を奪われる」等を理由に避けていたのですが、それは「体力を温存したい」「他の事に時間を費やしたい」とかの健康時の欲求があったからです。

ところが死んだも同然の体験を経てしまうと「周りにずっと負荷をかけ続けてまで生きていたくはない」「時間を筆頭に既に全てを一度失ったようなものだし、時間を節約してまでしたい事もない」という考えもあって毎日数時間、痺れて痛い足を使って歩くことができているのです。

 

地球の生体系を破壊したり大気を汚染したりする多くの人々も、それ自体が目的なのではなくて「そのことによって金銭を得られる」という第一義を果たすために目をつぶっているだけなのだと思うのです。仮に化石燃料型エンジンをこの世界から無くしたら、少なくとも一時期は失業や生活不便で悶え苦しむ人々で溢れかえってしまう文明です。

 

文明なんぞが栄えて滅ぶのは当然の事ですが「数百年先の地球環境を考慮する」ということが、どうしてこんなに難しいのでしょう。百年先の事でさえも考えている人は少ないでしょう。

 

それは、現社会では「人間は物質肉体なのであって肉体死を迎えたら全てが終わって無となる」と考える人が先進国を中心に地球人口の多くを占めているからです。言うならば「数十年自分だけなんとかなればよい教」の信者です。

 

しかし万人が肉体死を迎えたら気付くことなのですが、これは大規模な詐欺なのです。星のバランスを考慮するような人にとって、今の文明には稼ぐ手段も消費できるようなもの僅かしかありません。「他人や未来なんて知ったことか!」そう信じ込ませることで成り立っている大量消費社会です。

 

表面上で国家や企業の営みをあれこれ指摘したところで社会は変わりません。個々人の死生観や価値観が起点なのです。ですからこのような事を主張したところでうっとうしく思われるだけなのかもしれません。

 

しかし私は人間という愚かな種が、愚行をこれ以上繰り返すことを黙って観ているのが辛いのです。そして、そう感じている人が既に一定数いるようにも感じているのです。

 

大多数が実質「獣」として生きている今の地球人類が、「知的生命体」へと変革する大チャンスだとも私は捉えているのです。

 

「人の本質は非物質である」と語ったところで儲かりはしなくても、大切な何かを失うこともないのです。

眠れない夜
2018年06月04日

眠れない夜

詳細不明のエネルギーのような何かを強く感じる時があります。年中どこからか情報が発信されている星の運行や月の状況とは無関係にです。地球もトータルで生命体です。人間には誰にでも、人格性格とは別に感情や体調に少しは波があるように、星にだって説明のつかない変化があるのは当たり前です。磁気的な変動でしょうか。

 

昨夜眠りに就いた後、私は近所の赤ちゃんの夜泣きで起きました。深夜に夜泣きが聞こえたなんて初めてのことです。1歳の息子も寝ながらソワソワしています。この世での近所では事件や事故は何もないのに、犬の遠吠えも聞こえました。

 

身体を悪くしてから毎晩早く眠るのが習慣となった私ですが、今夜は眠気が全くしないため起きてこれを書いています。後遺症の痛みやしびれが原因でもない、何ともリラックスできない状況です。

 

大人になるにつれて鈍感になる人も多いが、子供や動物たちの皆が何かを感じて興奮気味!?のようです。

 

どんな人でも人生を何十年か送っていれば様々な時期があります。健康状態、経済状況、社会環境、気分…何にしても一生ずっと波が上下しないということはないでしょう。海でも空でも観ていればわかる通り、変化し続けるのが自然というものです。

 

変化を怖れたり避けたりするのは不自然なことです。赤ちゃんとして誕生したからには肉体死が確約された将来であることを筆頭に、変化を続けて行くのが自然な形態なのです。ところが自然になりたくない人が増えるのなら、人間社会が星を道連れに不自然となって行くことを意味しているのです。環境破壊と社会の機械化が益々進み人間不要論が持ち上がっても不思議ではありません。

 

そこにブレーキをかけるのが一つの生命体としての地球の機能ですね。火山噴火、地震、津波、異常寒気猛暑…等々、人間は変化を強要されます。その成果でもあるのでしょう、雇用されない人や大自然と共に生きようとする人は近年増えています。

 

文明の過渡期なのですから試行錯誤が基本。それを問題視する人も当然出てきます。世の中の常識はあと10年もすればひっくり返っていることでしょう。私が子供時代ほど強く感じていたイジョウな常識の数々が取り壊され、セイジョウな文明へと向かっているのです。

 

私が重要視するのは人間の定義です。人は基本「非物質生物」なのに、物質的な定義だけがなされた状態で文明が展開しているのですから。これが根源だと考えます。

 

「知性」とは非物質です。飲食やセックスやスポーツを追い求める人生ならば「知的生命体」でなくても良いのです。ですからセイジョウ石井には、多くの現地球人が「知的生命体」には見えません。

 

皆に知性があったのなら、こんな人間社会にはなりません。しかしいつからでも知的に生きることはできるのです。そうすれば、社会も自ずと変わるしかなくなるのです。

 

そのためにはまず、生命体として「知的」とはどういうことなのかを知る必要があります。

 

「記憶(データ保存)」のことではありません。「記憶」とは、今となっては機械に求めるスペックなのです。