お知らせ

2018年2月
人は多次元多重構造
2018年02月27日

人は多次元多重構造

ほとんどの人が「生死とは何か?」という最も根源的テーマをゴマカシ続けてカネや権利を追い求めているイジョウな今の社会で、知的生命体としてセイジョウでニュートラルなメッセージの発信を試みる【セイジョウ石井】です。

本名は石井数俊ですが、ペンネーム【セイジョウ石井】としては第一回目のお知らせとなります。

私が書いたり話したり、あるいは誰かのサポートに携わったりで発信している内容の根底に一貫して流れているテーマは「人は多次元多重構造の生物である」というものです。

今の地球に暮らしている多くの人は「肉体という物質だけが生命である」と勘違いしています。先進国と呼ばれる物質主義の国々が武力で次々と侵略した土地で、そのような教育(洗脳)をした成果なのですから当然です。

そうは言っても、日本人でしたら事故死した肉体を「鮮度が落ちないように早く」などと急いで食卓に並べるようなこともないでしょう。あやゆる肉・魚・野菜には日々しているそれができないというのは「物質肉体が機能しなくなっても人間には非物質としての何かがある」ということを心底わかっているからです。

火葬して骨の粉になってからでも丁重に扱うのが普通ですし、他界した存在と何十年経っても心を通わせている人だって少なくありません。

ですからこの国では、実際に霊魂の存在を疑う人はほぼいないのです。ただ、そうであっては不都合な生き方をしているが人が今日では日本でも沢山いて、そんな人たちは「肉体が死んだら全てが終わりだ」と信じたいだけです。

それらが前提ではあるのですが、大事なのは「多重構造」であるということです。「肉体で生きている間も人の本質は霊魂である」ということです。

「死んでからも非物質の何かがこの物質世界に影響を与え続ける」といったニュアンスで漠然と捉えている人はいても、肉体で生きている人にそれら非物質の影響力を当てはめて考える人が少ないのです。

機械のようにすぐに不具合が出ては修理して…そんな肉体が人間の本質ではないのです。そこに「神」とか「仏」とか「光」などの単語や、それらの代弁者とされる固有名詞を使うと宗教になってしまいやすいので私は避けています。ですから、それは「非物質の自分自身」だと言っているのです。

「物質ではないとしたって自分自身が神や光だなんて傲慢不遜だ!」そう感じる人も多いでしょう。でもそれは単なる自己卑下です。対象が肉体で生きる人でも故人でも偶像でも「私なんぞが○○様にお声をかけていただけるとはありがたき光栄…」などと思わず口をついて出てしまうほどに「あなた様の偉大さに比べたら自分は取るに足らないちっぽけな存在」…どれだけそのように信じ込ませることができるのか…そこで貢がせる規模が決まるため(肉体生命の場合も多し)ここ数千年は王道の搾取方法として普及していて、知らず知らずのうちに皆が洗脳されているだけです。

とにかく人間は、肉体を持ちながらでもまるで物理制約がないかのように自由に生きることが本来誰にでもできる存在なのです。ただそのためには自分自身の多次元性を理解して、それらの繋がりをよくする必要がどうしてもあります。

しかし、あなたの本質からしたらほんの一部分だけとはいえ肉体を持って生きているということは物質制約ゲームにも参戦中であることをお忘れなく。物質的制約が緩くなるほど、あなたの一部をわざわざこの物質世界に投入してまで求めた肉体経験の醍醐味は減ってしまいます。

ここまで読んで「何のことだかサッパリ!」と感じた方がいても全く不思議ではありません。皆それぞれにタイミングというものが重要です。何事にもヒントが欲しい時期ってありますよね。解こうとするネタがない時にヒントをもらっても、それはただの迷惑行為ですから(笑)。

これはテレアポでも飛び込み訪問でもありません。無数にあるネット世界での、とある超マイナーなワンサイトです。お気に召さない方がいらっしゃったなら…簡単なことです。どうぞ穏やかにこのサイトを閉じてください。

以後も具体的事例を挙げて人間の多次元性をわかりやすく解説して行きます。ご興味のある方、不定期となりますがお楽しみにお待ちください! 

セイジョウ石井

生死を語ることは正常で健全なこと
2018年02月25日

生死を語ることは正常で健全なこと

私の幼少期からの最大の疑問であり成人してからも最大の関心事、それは肉体死です。

子供の頃のそれは純粋な疑問でしたが「肉体死とは何か」がおぼろげに見えてくる思春期以降は「死をタブー視する社会」そのものの方が断然大きな謎となりました。

社会人としていろんな職種で働きながら探究を続けてみると「それが何故でどういう仕組みなのか」ということもわかりました。

「カネに支配された世の中を変えたい」という動機で、例えばよくいる政治家や宗教家のように「そのためにはまずカネや権力を手に入れる」という考え自体が矛盾していて私には興味が持てなかったため、それこそ社会の一般常識からすると「どこにもまともに勤め上げることのできないロクデナシ」みたいな半生を送ってきました。

その間も「人間の死」に対する興味については包み隠さずに堂々と語っていたため、相手が直接言葉にしないにせよ異常者扱いをされる傾向がありました。

生と死は表裏一体。死をタブー視している人は生をタブー視しているのです。死の事を考えたくない人は生きる事もあまり考えたくないのです。そこが罠です。「とにかくカネを稼がなきゃいけない。死を避けて生きて行くためなのだから仕方がない」・・・

だからこそ、この世は金銭奴隷で溢れ返っているのです。

そこで私は数年前に決めました。「異常者扱いをしたい人には勝手にしてもらうこととして、【肉体死とは何か】に関心を持っている、すなわちセットである【人生をいかに生きるか】(「いかに稼ぐか」ではありませんが、結果的にはそこに繋がります)を真剣に模索している人に提供できる、宗教ではない何かをコツコツ発信しよう。人間にとって本来それは正常なことなのだから!」

本名を隠したいわけではないのですが、もっと親しみやすい名がよいとの意見もあり、これまでの私の強い想いも込めてペンネームは【正常石井】です。
漢字にすると色んな連想をさせてしまうので(笑)カタカナで【セイジョウ石井】。

興味を持ってくださる方、これからもセイジョウ石井を宜しくお願いします。

孫はなぜ可愛い?
2018年02月24日

孫はなぜ可愛い?

ほとんどの方が息子や娘よりも孫の方が可愛いいと感じるようですね。財布の紐も緩みやすいみたいですし(笑)「目に入れても痛くない」なんて言われるほどです。

これまで個人的に聞いてきたその理由としては「その子がどんな人生を歩もうと、その頃には自分が生きていないので責任を感じない分、気軽にペットのような可愛いがり方ができる」みたいなものが多かったように思います。

それよりも単純に言うと「老いてくるから若さの価値が高い」という要因が私は圧倒的だと思います。つまり、自分の余命を意識しだすと自分を経由して誕生してくる命がとても嬉しく感じられるのです。ほぼ誰もが、親になる時期にはまだ暮らしを立てるのに手いっぱいで経済的不安や心配が先立ってしまい、手放しで喜んではいられないのが普通でしょう。

他ならぬ私こそ、孫がいてもおかしくない歳となった今でさえもこの世界での生き方をずっと模索しているようなものですから(笑)。

一年半前、救急搬送されたその日に私は集中治療室であらゆる肉体機能を順次失って、一般常識的には「残すは心肺停止のみ」状態となったのと同時に息子は誕生しました。意識が遠ざかりながらも最後の力を振り絞って瞳を上に向けると、大勢の医師が成す術なく脳幹出血中の私の周りを取り囲んでいるのが見えました。「よりによって誕生日が年月日でバッチリ父の命日なんて少し酷だったなぁ。息子よ、ごめん…」そんな風に思ったのをはっきり覚えています。

私が意識のない植物状態中でも妻は生まれた息子を抱いて見舞いに来てくれていたみたいですが「無事に息子が生まれて自分がまだこの世界にも存在している」ということを私が自覚できたのは、それから1~2週後です。立てない私のベッドに同じく起き上がれない息子を横たわらせ、何とも言葉にならない感慨に耽りました。オムツに糞尿垂れ流し、そこも一緒です!笑

ただでさえ自分の年齢からして孫でもおかしくない上、常識的に自分もそう大して生きられない、仮に長く生きても辛くて困難な余生であることは誰にも予想がつくわけですから、もう曾孫くらいの感覚です。しかしコップすらまともに持てない自分の身体で抱きかかえたりできるはずもありません。ベッド上でも自分が崩れて押し潰してしまわぬよう横から、ほとんど視えなくなった目で眺めることが精いっぱいでした。

あれから1年半、今では私と同じく歩けるようになった息子と妻と3人で公園に出かけ、噴水を眺めたりしているのです。これを実現するため、私は痛みに耐えて自己流リハビリを自発的に組んでここまで実践してきたのです。

息子は、肉体で生きる大きな動機付けを私に与えるために絶妙なタイミングでこの世界にやってきてくれました。そして私が肉体で生きる真の意義は、もちろん子供の相手をすることだけではありません。同じく苦しみながらも肉体で生きている方々が希望を抱くきっかけを自分も提供できると考えるためです。

仮に今がどんなに辛くても悲観しないでください。
常識的にそれが無理なら、非常識になればよいだけです。
いろんな人それぞれにいろんな常識がある…これは事実です。

あたかも自分以外の誰もがそうであるかのように錯覚している「常識」とやらに惑わされないでください。そんなものは存在しません。

この世でどんなに「権威がある・信用がある」とされる人が言っていることでも、それが当てはまらない多くの人にしてみたら、それは非常識です。

強いて言うのなら、生きている人が希望を持って生きる…それが常識です。常に苦痛や不安を感じているのなら、それは非常識な生き方をしているからです。「お金を稼ぐためには仕方がない」という理由で非常識な何かを続けているから、どんなに稼いでも不安で苦痛なのではないでしょうか。

何が常識なのかは、皆さんすでに深い所で知っているのです。
この世の仕組みは、その人の常識によって異なります。
解釈が異なるのではなくて、実態が人によって異なっているのです。

アナタの選んでいる世の中の仕組みはどんな仕組みですか?

 

興味が向くもの
2018年02月20日

興味が向くもの

人は誰しも観察対象を自然と「好き・嫌い・どちらでもない」の、おおよそ3種類に分けて認識し、それぞれの反応を示すものです。ところが乱暴な言い方をするようですが、実のところ大雑把に「関心がある」「関心がない」の2種類しかないと私は考えています。

 「嫌う」という行為はエネルギーなどのコストをわざわざ投入するという意味で、自覚がないだけでお金や時間を費やす好きな事と同列扱いしているのです。

本当にどうでもよいと感じることに関わりを持ちそうになった場合、奪われるエネルギーを最小限で済ますためにも多くは軽い嘘などを駆使し(笑)摩擦最小限で切り抜けようとするものです。金銭報酬だけを目的に労働をした経験のある方ならすぐにわかる簡単な話です。

では「嫌う」という現象は何なのでしょう。私はそれを一言で表すのなら「自分自身の葛藤」だと思うのです。わかりやすい例を挙げてみましょう。本当にあくまでも例で、特定の誰かをイメージしたものではありません。 

若い頃に異性の誰かから好意を抱かれた場合(ストーカーなどは論外ですが)自分には何の実害もないのにその相手のことを嫌っているような素振りをすることがあります。

男性なら「俺の彼女になりたければもっとおしとやかで気の利く女にでもなれ!」なんて強気な思いもありながら、「実際にそうなら花形スポーツ選手とでも付き合うだろう。パッとしない俺なんかに好意を示してくれるのは、これから先もあれくらい図々しくて単純なタイプしかあり得ない。つまり悔しいけど釣り合っているってことか?」…

女性なら「アンタみたいにブサイクで低所得な男ってサイテー。見た目はしょうがないとしても、私は年収1億以上の男しか興味ないの!」とか咄嗟に言ってしまうのが習慣化してしまったものの、家では夜な夜な一人ため息をついてカップラーメンをすする生活を長年しているうちに突然取り乱して「もう無職でも何でもいいから誰か私と結婚して~!」(笑)

つまり自分が理想とするところと今の自分の実態とのギャップを受け入れられないと、実態に即した人なり物事なりを拒否することで理想だけを維持しようとするのです。

理想を掲げること自体は悪いことではないのですが、実力を理想に近づける努力を継続する人が極端に少ないのでしょう。あるいは理想を掲げること自体が目的なので、目的を失わないためにも実態は理想とはかけ離れている方がよいのかもしれません。

私が何を伝えたいのか… あなたが嫌だと感じる物事や人物は、今のあなたの現実を象徴的に映し出している重要な何かなのです。あなたが不快に感じる何かは、あなたが認めたくないあなた自身の一部なのです。それらを認めて受け容れて初めて、努力を継続して状況を変えることができるのです。

 

一昨年、集中治療室で意識が戻ったばかりの頃の私は、あまりにも濃厚で大量の異次元体験記憶の整理に忙しく、この肉体に起こった脳幹出血に伴う小脳損傷という惨事が些細な事に感じました。それでも徐々に意識がはっきりするにつれ、寝たきりで操れない身体から常時猛烈な痛みや痺れを感じ取るようになってきたのです。 

眼はほとんど視えません。食料を口から摂取しないので味覚も想像すらできません。でも周りの患者の苦しそうなうめき声ははっきり聴こえます。倒れて意識が遠のく中、一切無音の世界に入った瞬間ははっきりと憶えていますが、その聴力機能の喪失は一時的なもので済んだようです。身体を起こしてもらい車椅子に乗せられて行く先はトイレです。漏らした排泄物を感じ取れるまでに皮膚の感覚が戻ってきたのです。

そんな状況の中、ろくに見えない天井を仰いで覚悟を決めました。

「こんな肉体でもまだ少しは動くし思考ができる。ならば、これまでのような自由は利かなくてもせめて付きっきりの介護なしで暮らせる身体にまでは努力を継続しよう!」

私が本気で良くなると決めて入院したリハビリ専門病院では、患者の皆さんが辛くて嫌がっているというプログラムでは物足りなかったくらいです。おかげで話せてなんとか歩けるようになって退院しました。

徐々に和らいではきましたが、今でも常に痺れと痛みはあります。それでも毎日数時間は歩きに出ます。そうしないとすぐに歩けない身体に戻ってしまうのです。睡眠中も1時間おきくらいでトイレ(漏らしたくないから)。あらゆる影響から排泄制御はやはり難しいのです。それに数時間も連続で横になると、介添えなしでは起き上がることができなくなってしまうから丁度良いのです。

ポンコツとはいえ、今使っているこの肉体死を見届けることができるその日までは努力を継続して行くしかありません。でも、その甲斐あって一見は健康な人に見えるほど、介護なしで歩いたり話したりできているのです。

近頃では「好きなことだけやっていればいい」なんて言葉が流行っているようですが、もしかしたらその「好きなこと」とは、つい先ほどまで「嫌いなこと」として認識していたものを指しているのかもしれません。

今回の文脈からすると「あなたが興味の向くものに集中しましょう・お金のためとはいえ、どうでもいいと感じることに時間やエネルギーを注ぐことは不健康です、あなたはロボットではないのですから!」ってな感じでしょうか。

僅かに見えて大きな違い
2018年02月13日

僅かに見えて大きな違い

自分にとっては凄く大きな変化であっても、周りからしてみたら気付かないくらい些細な変化だったらしい… そんな経験を皆さん幾度となくされてきたのではないでしょうか。

「関心事が違う・同じ関心事でも視点が異なる」等々、いくらでも理由は挙がるでしょう。それが男女なら、その言い訳にいつも苦労している人も少なくないはず!

さて、いつもの観点で書きましょう(笑)

それは、外見上の変化などより内面の心理的変化から感じていることなのでパッと見でわからない、つまり本人だけが感じている大きな変化であることが原則だからです。どういうことかと言いますと、ベタな話ですと髪型や化粧を含めたファッションがまさにそうです。

すれ違って視線を外したり、逆に凝視してしまうような極端な例はこの際外しますが、例えば、ずっと嫌っていたデザインの上着がひょんな事から気になってしまい、買って身に付けて外出したとします。街では特に目立つこともない色と形と素材で、いつも会っている仲間は何も言わなくても「相変わらず無難で一緒にいて安心できるファッションだな」と感じていたとします。

ところが着ている本人からしてみれば、凄く思いきった格好で外出中なわけです。「過去のこだわりを払拭できた」とか「好みのセンスがこんなにも変わった」とか「昔ならユルせなかったこんな服を買ってまで着ている、寛大になった私」とか…笑

いずれにしても自分では心理的に凄い変化なのですから「アンタはこの大変化に気付かないってわけ!?」くらいに思ってしまうのですね(笑)

ファッション以外でも、いくらでも例を挙げられます。

そうです。「外見等の物質的変化はほんの僅かであっても非物質的には大きな変化」とは原則、本人にしかわからないのです。しかしそれは実際に途轍もなく大きいものなのです。ですから長年低頻度で接している人になら「あの頃から変わり出した」とわかることがあります。

そして、そのような機会を重ねて次第に見えてくることがあるのです。それは「誰にでもすぐにわかるような変化は真に深い変化ではない・人間の内面とは、他人にわからせようしても簡単にわかってもらえるはずがないし、また、そうする必要も全くない」…

上述を「若くして悟った」みたいに早とちりしてしまうのが「ひきこもり」だと私は思うのです。

そこでもうひとふんばりしてほしいのです。物質世界では時間が掛かりますが、ほんの僅かであっても「感じること・言うこと・すること」を変えて根気よく継続していれば、それは必ず伝わって結果的に人間関係を筆頭に大きな物理環境の変化を確実に起こします。

「ある特定人物を理解すること」は、万人にとってかなりハードルの高いことなのですから「自分を理解してほしい」など叶わなくて当然なのです。そもそも、大抵はそういう本人自身が自分を理解していないのですから!笑

ちょっと見での人の印象は、後で思えばほぼ誰でも「思い込みだった」と感じるものです。

ですから変な話ですが、私の記事を読んだりイベントにお越しくださった方々の反応は、薄い方が嬉しい部分もあります。仮に(本当に仮の話ですが)何かが見えたとか聞こえたとかで大騒ぎしている人が出たとしたら「物理現象に近い側面に注意を引かれて内面変化にまで導けなかったのか…」と思ってしまう(笑)ということです。(肉体をお持ちの方でも既に十分変化に富んだ領域に日常的に達していらっしゃる方で、遠慮なくごく普通に接してくれる方もいます。何事にも例外はあります)

自分が変化成長していることを誰かにわかってほしければ、その新しい自分がすることを継続することで物質世界に表現し続ける…回りくどいようでもそれ以外に方法はないのです。そしてそれがこの世界にいる意味です。すぐその場での反応を求めるのは、赤ちゃんだけの特権です(笑)

皆さんが後年になって思い返してみて「あの時期に出合ったあの人が今の自分に最も影響を与えた」という人物、誰かしら思い浮かぶでしょう。その方が他界しているケースも多いでしょうが、それが良い影響だったと思うのならおそらく、その方はこの世的に目立たない人である可能性が高いのです。赤ちゃんみたいに派手な何かに反応して騒いだりふてくされるのも素直で結構ですが、一見地味だからこそできる深くて静かな生き方に魅了される人が増えているように思います。