お知らせ

2017年7月
群れることの害悪
2017年07月27日

群れることの害悪

政治とかの話ではなく、皆さんは自分が多数派だというだけで少数派を無視したり軽視しているようなところはないでしょうか。

歩行者や自転車でのすれ違いの際、誰でも一対一でしたらお互いを配慮して難を感じることは滅多にありません。ところが相手が横並びで複数いる場合、人数が多いほど迷惑な状態を維持したまま近付いてきて、すれ違いが困難になる傾向があるのです。 近頃それを強く感じる理由が、今の私は歩行訓練を数日さぼっただけで身体が固まって歩くこともできなくなるため、ほぼ毎日1~2時間は歩く練習をしているからです。

重心移動などの半年以上の訓練が効いたらしく、私がゆっくり歩く姿を見られても、まさか身体が不自由であるとは思われないフォームになっています。でも実際は急に止まれませんしもちろん速く動けませんし方向転換も少しずつしかできません。視界も少しは良化しましたが常に乱れていますから、一歩家を出ればどこでもスリル満点のアトラクション状態。いとも簡単に転べても、受け身は取れず怪我は必至!(笑)

私の身体のことはさておき、道路通行に関することだけでなくて全てにあてはまることだと思うのです。その集団を構成している個々人が元々配慮に欠けた人物で、公共の場で常に迷惑行為をしているわけではないでしょう。集団となった時点でモラルや思考力が低下しているのだと私は考えます。

それが個人だと問題視されることでも自分が人数の多い側(法人でも)だと自分を含む集団の皆が傍若無人に振舞ってしまう…人間の不思議さですよね!などと語り出すと政治的な話となりますから(笑)。

皆さんも感じていることでしょうが人間同士のネットワークやコミュニケーションは生きて行くために必須ですし、複数人でのチームで何かをすることは大変でもあるが楽しくもあり、単独では成し遂げないことを実現させる、まさに人生の醍醐味であると私も考えています。

ただ「いかに集団組織に属さずにつながって生きて行けるのか」を皆がもっと真剣に考えて実践したならば、世の中のしくみは大きく変わります。いや、いろんな意味でその必要があって実際すでにそうなりはじめているということですね。

集団組織とは結局「重大な決定を能動的に自分がしなくてもよい」という依存傾向のある人々がどうしても集まってしまうものだと思うのです、つまり責任を取りたくない人。そのシステムに組み込まれている人たちに「世の中をどうこうしてほしい」などと期待するのはナンセンスでしょう…むしろ一番遠い所にいる人たちです!(笑)

特別立派なことである必要は何もないのですから、誰かにしてもらうことは考えないで自らができ得ることを皆がすればよいことです。そのときに、充分でき得ることを「そんなこと自分にはできない!」と決め付けている人が多いのは事実です。

その枷が外れるときが「人生の転機」と呼ばれているのです。

そして、その気になれば人生の転機はいつでも身近に存在しているのです。

 

大人になる
2017年07月25日

大人になる

私が物心ついてから成人するまでに一貫して加速し続けた感覚がありました。それは「人間という生物は醜い」という強い思いです(笑)。 

何よりも「自分が」ですが、物質的に大便・小便・ゲップ・屁・汗・垢・フケ…などの臭いモノを「これでもか!」と言わんばかりに日々生産(笑)している自覚が徐々に芽生えてきます。

そんな物質的な事よりも強烈なダメージとなってくるのは非物質の醜い言葉や想念です。学校では子供から競争心が植え付けられて嫉妬心や罪悪感が湧くのが普通です。何らかの材料があればすぐに相手を蔑視することで自分が優位に立とうとする大人顔負けの愚か者が(笑)皆さんの身近にもいませんでしたか?

教師や親などの限定された大人の評価を真に受けて「何の取り柄もない自分なんて生きる価値もない」などの罪悪感を持って生きていることの方が根深い問題でしょう。しかしそれらが学校教育の目的でもあるわけですから、この世に生まれてきた子供には原則避けようのないことです。

バイトでもするようになれば、世の中は腹黒い人ほど生きやすいしくみとなっている事を、否が応でも知らされるわけです。悲しいことですが根底から嘘と偽りで固められたような人、そうとまで言わなくても咄嗟に上手な嘘をつけるような人でなくては生き方はかなり限定されてしまいます。

私は昆虫や小動物の飼育を通して、とりわけ魚は大人になってからもずっと飼育し続けて「人間とは違って美しいなぁ…」と鑑賞を楽しんできたのですが、その美しさは人間で言う素直さや純粋さなんですよね。人間が純心なのは原則物心つくまでの数年だけだというわけです。良くも悪くもそんな純心さのままでは生きて行けない世の中なのですね。乳児を何百何千時間と観察できる機会が自分にも訪れたため、改めて感じたのでした。

それでも最近は「生きるためには仕方がない、自分も醜くなって社会適応しよう」とは考えないまま歳を重ねる人が出現してきているように見受けられます。でもまだまだ、世の中はそんな人たちを「大人になれない子供」として白い目で見がちです。

「今の世の中に堂々と美しく生きる人間がもっと存在していてもよい」

静かにそう想い続けている仲間が、つながり始めているのを実感しています。

自分も星
2017年07月24日

自分も星

この太陽系で言えば月や太陽に水星・金星・火星・木星・土星・天王星・冥王星・海王星など、つまり惑星や衛星や恒星。それだけでなく様々な星たちや星団の向きや配置が人間の運勢や体調を左右する…そんな記事を目にすることが多いですよね。

それはその通りだと私も思いますし、実際この物質世界にいるかぎり、誕生日時をはじめとして星々からの影響を受けずに生存することはできないでしょう。

ただ、私にはいつも気になることがあります。それは、その時々の特異な星の配列なりの影響で「物事が滞りがちとなる・人間関係がぎくしゃくする・身体や頭が重くなる」…等々のよろしくない事態の口実になっている説明は頻繁に目に入りますが、星の影響で「仕事がメチャはかどります・人間関係が急激に良好になります・心身共に絶好調でしょう」…などの説明や感想を目にした記憶があまりないということです。

上手く行かないことの口実を調べたり気にしているくらいなら、それらの影響をなるべく受けない考え方で生きる方が楽しくて賢いように思うのです。大病にかかるリスクをあれこれ調べている本人が実際に大病となって「ほらやっぱり!避けがたい○○のせいだよ」という話や、生活習慣について周りに散々あれこれ言われ続けた人が気にも留めないで健康で長生きしてしまうような例を、きっと皆さんご存知でしょう(笑)。

人間とは星でもある」というのが私の基本的な考えです。物質と非物質・別世界・別次元などが絡んでどうしても複雑になってしまう説明はさておき、あなた自身が星であるという認識になってしまえば、周りの影響から完全に免れることはできないにせよ一方的に振り廻されるような受動的影響はなくなります。その筋の専門家が「この時期にそんなに調子の良いはずがないのだが…」と首を傾げるぐらいのことは誰でも起こせます!笑

それは、物質世界で「呼吸」と言われている行為で制御します。
今週末はそのことについて解説しながらのワークショップです。

第8回高次元波動体験会のご報告
2017年07月17日

第8回高次元波動体験会のご報告

昨日7/16(日)に行われた【第8回・高次元波動体験会】のご報告です。

昨日は「以前からずっと気にかけていたのですが、やっと日程が合って参加できました」という参加者が多かっただけに、この日時に居合わせている意味の大きさを実感されていたようでした。

肉体は座ったままでも横になってくださっても、とにかくリラックスした状態で野村節子さんのクリスタルボウル演奏に意識を傾けてもらいます。良くも悪くも毎回大きく影響する共通波動があり、肉体よりも精妙な波動となった意識体での活動報告を各参加者にしていただくと、毎回打ち合わせでもしていたかのように似た景色や行動風景が浮かんだりするのです。今回は「南国・水・泉・海・泳ぎ・川・螺旋・龍・ニョロニョロ・水色・黄緑色」等が共通イメージの傾向がありました。

慣れない異次元体験は衝撃的だったり奇想天外すぎて、皆さん自分で内容を上手く言い表せないのが普通ですから、私がそれを引き出すお手伝いをします。体験記録をとって帰られてから、後日その意味に気付く方も多いでしょう。いずれにしても、この世で本を読んだり話を聴いたりするのとは別種の自分専用メッセージを受け取るわけです。

その相手が神様でも詳細不明の生物でも天使でも宇宙人でも知らない人間の誰かでも、また人物や生物でなかったとしても、何であれその現象にメッセージがこめられているのです。そして、肉体をもつあなたにそれを伝えたがっているのは、時間や空間の縛りから自由となっている非物質のあなた自身なのです。

日陰と日向
2017年07月14日

日陰と日向

1970年代、小学校に通わない子供は原則いなかったと思います。当然のように、学区というものに従った小学校に私も通いました。田舎ですからのんびりしたもので、同級生をライバル視したとしても一部の生徒だけ、中高生になってからだと思います。

珠算や習字、ピアノやエレクトーンなどの教室を開いて商売をする大人は田舎でもいましたから、習い事をしている子供はいました。でも受験ビジネスチェーンがまださほど参入していなかったため、学習塾に通う小学生が存在した記憶はありません。

小学校は友達が集まる楽しい遊び場所であり、登校するのが楽しみな時期が数年は続きました。漢字や数字、理科や社会での固有名詞あれこれを覚えられることは有意義で、授業が無駄だと感じたこともありませんでした。本人の成績や家族構成とは全く関係なく皆でテレビ番組から得たネタや近所の時事ネタ、誰かのモノマネなどで毎日ワイワイ騒いでいました。

しかしそんな無邪気な時期もずっとは続きません。4~5年生になると徐々に世の中の不条理さに気付くようになってくるのです。これは当時の田舎で情報も少なくて発達の遅かった私の場合ですから、今時なら小学入学頃の子供が普通に抱いている感覚なのかもしれません。

まずは、授業の内容が「くだらない」と感じる比率が高まってきます。それが本当に真実なのか?とかは置いといて(笑)これを憶えたところで何なの?的な授業が増えてくるのです。そして、大人の習性が刷り込まれた発言や行動がクラスメイトの中でも目に付いてきます。

子供ながらに露骨な表現を避けたとしても(それは返って大人のような陰湿さか!?笑)ひとりひとりの相違を問題視するようになるのです。「○○は目立ちたがり屋」「○○はカッコつけ」「○○はバカ」「○○は運動オンチ」…といったことですね。個性的であることは、まるで「悪」。私が数年後に猛烈なイジメに遭うための布石がそこで打たれていたのです!(笑)

名前を大きく書いた名札を縫いつけた、軍服とも体操着とも囚人服ともつかない同じ制服を皆が年中着ていました。明らかに学童の服装ではありません(笑)。後で思えば相手が田舎の子供なのをよいことに、戦後30年も経ってにそんな工業規格製品のような扱いを人間に強いているのですから、規格外が鼻につくような狭くて閉じた感性が子供にも自ずと育まれてしまうわけです。

私にとって最も不可解だったことが、雰囲気が貧乏っぽい子や成績全般で劣るとされている子が必ず嫌われることでした。スパイのように実情をちゃんと調べたわけではないでしょうから(笑)あくまでも「そう見える」ということで、本当は資産家だったり高い知能の持ち主だったのかもしれませんが、どうであろうとまだ子供なのですから本人が好き好んでそのように見せているわけではないのです。 

私は実弟が知的障がい者ということで特別養護施設に預けられていたので「もしこの場に弟がいたとしたら…」と思うといたたまれなくなり、そのような偏見で蔑まれている同級生を男女かまわず庇ってしまうところがありました。すると、その庇う行為が「変わり者」であると見なされるのです…何の得にもならないからでしょうか。

そんなことが重なって、私は人間という生物について分析する性向が強く出てきたのです。大人の見地からすると「生物は弱い者を餌食にする習性がある」という当然のことですね。長年生物観賞を趣味としてきたので、これはよくわかります。魚同士でも、小さかったり弱っている個体を真っ先に突き殺したり吞み込んだりして餌とするわけです。魚に限らずこれが物質生物の自然淘汰です。弱い者は排除される…では、人間社会の在り様も果たしてそれでよいのか?ということです。 

それこそ小学校でも「人間は他の生物とは違って特別だ」などと教えられます。「知恵があって思いやりの心を持つことが人間らしさだ」みたいな話ですね。でも実態は皆さん知っての通り、他の生物の比ではない同種間での殺戮・支配・搾取を繰り返して歴史を刻む残虐さ。それが武力なのか経済なのかの変化はあるものの、確かに人間は特別な生物です!(笑)

社会組織の中で歴代優位に立ってきた方々の人間性を見れば(良く見せようと努力しているのでしょうが)わかることです。創業者や自営業者なら該当しない場合もありますが「正直者がバカを見る」との言葉の意味が誰にでもすぐ理解できてしまう、そんな世の中に上手く馴染めない人は、果たして本当にダメ人間なのでしょうか。

近況、そこに逆転現象が起きはじめています、とはいってもまだ一部。弱者を踏み台にして稼ぎたくはない、非合法ではないとしても、嘘と偽りにまみれた他人を騙すような日々を送りたくない…そのような理由から今の社会に居場所を見つけられない、まともな人々が自ら道を拓きはじめて賛同を得ているのです。今はまだ目立っていない予備軍の皆さんが、これからも日陰に隠れ続けている必要はもうないのです。

タテマエとオンネの使い分けが必須の世の中。子供の頃からそんなことを考えるまでもなく身に付け、家でも学校でもタテマエとホンネの切替を駆使して成長してきた…そんな社会の中にでも、嘘や偽りのない人々が日向で堂々と生きられる場所を皆で設ける。今ある社会の中にそれを創出することは、そんなに難しいことではないと考えます。

私たちと想いを共有してみませんか?

経験の共有
2017年07月13日

経験の共有

人間は、それが何であっても対比するものが無ければ認識そのものすらできません。夜があるから昼を認識し、寒さがあるから暖かさを認識できるように、改めて考えてみると実に見事なほど対極の何らかを知っているから、そうでない状態の意味を感じることができるのです。厳密には「知る」のではなくて「経験」することではじめて得られる感謝や喜びが、人生の醍醐味です。

これは誰もが否が応でも感じることですよね。サイボーグではない証として(笑)空腹感や眠気や体調不良、寒さ暑さを一度も感じたことのない人間はいないわけです。

逆の見方をしますと、世界中ほとんどの時代で日常であった「身の周りでよく知っている誰かが死を迎える」という事態が、珍しい事のように感じるほど平和で安全な世の中が続けば、人生への不平不満は増えても生きることの喜びやありがたさをを感じ難いわけです。その善し悪しは別にして「このネタで、これだけ騒がれてしまう世の中なのか…」と、表面的には平和となっている今の世の中をしみじみ実感している人も多いはず。

だからといって私は、豊かさを味わうために断食や不便な暮らしをしてみることをすすめるわけでも、健康を実感できるように身体を酷使して、一度は身を危険に晒すのが良いとか考えているわけではありません(笑)。 

そこにはこだわらない生き方について少し書いてみます。

今も肉体で生きている世代がこの世界に生まれてからの社会環境からすると、人生を左右する二大要素とは(もちろん例外はありますが)おおよそお金性(恋愛・結婚)かと思われます。 

冒頭に書いた話の流れからすれば「物質金銭的に貧しい環境に生まれ育ったからには経済的に報われることが人生最大の目標であり、そのための犠牲(不本意さ・非情さ・冷酷さ)はやむを得ない」というような考えのまま晩年を迎える。その延長線上にある性への考え方なら「表面上はアブノーマルな趣味だと思われることを慎んで、相手選びには家柄などの経済利点が何よりも優先される」といったところでしょうか。 

あくまでもざっくりですが、逆パターンですと「経済的に不自由のない家に生まれて物質的には恵まれて育つも、社会的優位に立つ人間の強欲で卑怯な生き方を間近で見て知ってウンザリし、清貧に憧れる」みたいなことでしょうか。それが性的には「家柄や生育環境が違いすぎたり価値観が世間一般と大きく異なる相手と、周りの意見を無視して一緒になる」パターンですね(笑)。

強いて言うのなら、若い世代は圧倒的に後者が多いというのが現状です。レストランでの外食や海外旅行を自慢に思えたり、大きな家や豪華な乗り物に憧れる若者は今や少数派なのです。そして、上述のパターンには当てはまらないケースも増えているのです。 

それは例えば、経済的に貧しい環境に生れたからといって「大人になったら金持ちになって見返してやろう」とは考えないケースです。これは「金持ちを目指して努力することで人生は報われる」との洗脳が解かれたということでもあります。独立して社会人となったにしても、昨今では金銭や物質に依存しないで豊かに生きる方法を模索しているのが当たり前の風潮です。

これら一見無欲な人々は、両極端を経験して初めて理解できるはずだと思われていた個人的学びの経験値を、貧乏も裕福も大して経験していなくても何らかの形で早い時期から得ているということなのです。散々苦労して両方のベクトルを経験してきた人ほど「まだ若くて何も解ってないガキが…」などと思ってしまうのでしょうが、もしかするとこれは集合無意識の作用によるものなのかもしれません。 

その理屈はどうであれ、先人の経験学習が共有されてくるのです。工業製品のスペックで言うと「今ではどの機種でも当然である機能が、かつては一部最先端の最高峰機種だけに付いていた特別機能だった」みたいな話です(笑)。人間と機械とは違うのだから、そんなバカな…と考えたくもなりますが、戦争を知らない世代でも「あらゆる犠牲を払ってまで争いに加担・協力して勝敗にこだわることのばからしさ」を知っています。それは学校の授業でいうところの「歴史から学ぶ」といった知識的な事とは別物であると私は感じています。むしろ学校は、勝敗や競争の価値観を植えつけるための場所なのですから。

人間の非物質領域に鍵があるのです。この世に物質として残っている記録だけではなく、先人の経験が自分の人生にも非物質的に蓄積されているということです。非物質的にはいつでもカンニングし放題なわけです!笑

 

欲を無くしたい欲
2017年07月08日

欲を無くしたい欲

人間とは面白いもので、欲望に振り回されて一喜一憂している自分がイヤになると「こんな欲望自体から開放されたい」という欲望が湧いてきたりもします(笑)。

悟りという言葉があります。
普通に社会生活を送っている人からしてみると宗教的ニュアンスがあるため、私も使うことを躊躇しがちな単語です。知識の吸収や肉体試練といったものとは真逆の、全く努力を必要としない状態を指す言葉だと私は思うのですが、後の人間の手によって時と場所を経て伝えるうちに歪曲され、宗教的修行等で追い求めて手に入れるものであるかのように捉えられているからです。

若い頃は「この肉体で生き続けても、記憶喪失になれば悟りに近いものが叶うのではないか?」と考えたりもしたのですが、歳を重ねた今となっては実際に脳を損傷して不便な身体にはなったものの、そうそう都合のよい機能障害には陥りませんでしたね(笑)。

というわけで、タイトルと同じ欲求を抱いていた時期が私にもあったということですが、30歳頃に辿り着いた感じ方で、今でもそう感じている私の結論を申しますと「あらゆる欲を完全に失うならば、物質界に肉体で出現しなければよかった」という話だと思うのです。

物質界と非物質界のそんな関係性を誰も教えてくれない今の日本社会ですから、中学生の頃の私は「どうしてこんなにもデタラメな世の中なんだ!俺はこんな世界に好きでやって来たわけじゃない!」などと喚いて両親を困らせていた、とんでもなく親不孝なバカ息子でした。そこから自分なりに探究してきた今だからこそ「他のどんなことよりも大切な、これらのことを伝えられる人になろう」とのが私にはあるのです。そして、その時は答えに窮して困っていた両親も、非物質世界から今の私をサポートしてくれているのです。

生存欲求がそのまま食欲や性欲や物質所有欲ですから、歴史上この物質界で活躍した者は皆、食通で好色で支配や権力が大好きなのです。しかし上述のように、悟りは真逆なのです。カネも名誉も物質所有も支配もあまり望みません。食事にもセックスにも、ろくに興味がなかったりするのです。

アセンションという単語もこれまた怪しくて使いたくないのですが、新人類でもニュータイプでも○○チルドレン(小泉じゃありませんよ!笑)でも草食系でもバイセクシャルでも呼び名は何でもよいのですが、コテコテの物質人間からしてみたら生存欲求の薄い、物質肉体依存度の低い、無欲で何を考えているのか解らない非物質寄りの新しい世代が地球にも既に台頭してきているのです。

それをひきこもりというワードで私は括っています。そして、そんな人種の感性がわからなければ理解して、有していれば伸ばせるように体験会も開催しているのです。

緊急度における錯覚
2017年07月05日

緊急度における錯覚

社会人の皆さんなら、重要度と緊急度をマトリクス(表)にした時間管理術をきっと見聞きしたことがあるでしょう。意識して実践している方も多いことと思います。

何が重要なのかは人それぞれ。特に労働時間外ならば口を挟むのも大きなお世話でしょうから、重要度の話は脇に置いて、私が常々感じるのは緊急度の設定がおかしい人が多いのでは?ということ。つまり少数派の意見となりますが、これについて少し書いてみようと思います。

誰の人生にとっても、惑星の文明や生態系全般にしてみても、この物質世界では重要な案件ほど着手してから成果があがるまでに時間を要する傾向があると思うのです。この考え方で行くならば、最も重要なテーマの取り組みには最も時間を要すると判っているわけです。即ちそれを真っ先に着手して継続する姿勢がなければ、些細な物事はあれこれ達成できたとしても重要なテーマとなるほど未着手のまま、もしくは時間切れとなって当然だということです。

「結果がすぐに出ないことは緊急ではないこと」と見なして後回しにしている人が実に多いということなのですが、私はそれを逆にする必要があるのではないかと考えるのです。

卑近な例ですと、買い物をする際に懐事情から金額が高いだの安いだのと神経質になっていたとします。ところが、そもそも必要でもない買い物をする悪癖を止めた場合、どれだけ飛躍的な節約となるのかは判っているのだが、その慣習を変えることが簡単ではないから、浪費癖自体を無くす工夫は選択肢から除外している(笑)…といった具合です。

思春期に入って「環境・資源・人種・権力」などの諸問題に関心が向くようになってから、私はそのことに気が付いてしまい、これらの過ちを大人たちがをこぞって実践していることが不思議でなりませんでした。しかし、それこそ一人ですぐにどうこうすることもできない社会問題ばかりでしたから、私は常に人間社会の矛盾に対して憤りに近い感情を抱え、人間社会全般を軽蔑したまま成人しました。かといって天使や宇宙人が救いに来てくれることを願っていたわけでもありません(笑)。

自分も今はその人間をやっているのだから、人間社会を軽蔑したところで生きることが辛くなるだけです。そこで打開策を求めてあれこれ探究した結果見えてきたこと…

どうやら根本原因は先進国とされている人々の死生観にあるようだとの結論に達したのです。世の中を大きく動かす立場にある人が、肉体死を迎えれば何もかもが無に帰すというカルト信仰(笑)で人生を送っているのならば、世の中にどんな歪みが生じても自分の余命残り時間だけ誤魔化し通せればそれでよいわけです。どうせ自分はもうすぐ死ぬんだから子や孫や曾孫の世代の社会なんてどうなろうが知ったこっちゃない!それがこの世界の高ポジションを占める方々の本音だったというわけです。

前世紀末から、上記カルトを信奉しない人間が増えてきました。「自分の肉体を富ませるためなら何でもする」という人ばかりではなくなってきているのです。それが儲からないことだとしても、地球環境や人類のあり方に興味関心を示す人が増えてきたのはとても嬉しいことです。「こんな世の中でも、これまで肉体生存してきた甲斐があった!」大袈裟でなく本当にそう思える変化を私は感じています。

ですから私は、人間の本質が非物質であることをコツコツお伝えしています。それが宗教の経典のようなマニュアルや誰かの言説だけでは必ず誤解を生じますから、ご自身の体験で探究してみてくださいとの趣旨で私が開催しているのが【高次元波動体験会】です。

無音の静寂の中で瞑想をすることは現代人一般にはハードルが高いため、現在はクリスタルボウルの演奏に意識を傾けるという手法を取っています。そうすることでも自分の本質が肉体とは別の非物質存在であることを充分に体験できるからです。図らずも、私が若い頃には願ってもいなかった「天使や宇宙人に遭遇する参加者が続出している」という事実は、なんとも皮肉で面白い現象ですね(笑)。

地球人類の行く末がどうとかそんな大仰なことではなくて個人の人生の指針でも、向かう先がおぼろげでもよいから見えていることが重要かつ緊急なのです。ハッキリとした目的が何で、具体的にどんな手段でどんなルートを辿ることとなるのかは、動き出してから決めればよいことです。「詳細の何もかもを詰め切ってから動き出そう」と考えることは、ずっと何もしない、もしくはチャンスを逃すことを意味します。

予定を勝手に決めたところで何度も変更を余儀なくされるのが物質世界の人生ゲームなのです。このゲームには絶対的な時間の制約があるようでいて実は時間も空間も錯覚であるということ。そのことも、非物質として得る経験から誰にでも気付けることなのです。

 

 

 

母の偉大さ
2017年07月03日

母の偉大さ

世の中には実に様々な商売や職業、知って呆れるほど多様な考え方に基づく色んな人間の生き方が存在します。ある人にとっては「まさかそんな人生を送っている人がいるなんて…」という生き方が、他のある人には「そんな事も知らないで生きている人がいるのか!」だったりするわけです。

現在でも歴史上でも、一般的に認知されている職種や功績や人名は、人間ひとりひとりが本当に果たしている役割の中でも一部でしかありません。どういうことかと言いますと、全てが経済原理に則って動かされている社会では、金銭報酬を得るためにする仕事が職業として確立しているのみで、給料がもらえない、お金を稼げない、お金を払う人がいない物事を扱っている状態は、少なくとも一般的な地上の人間には職業として見なされないわけです。

そんなことも知らずに過ごしていた私のマヌケな過去を綴ってみます。

自然に恵まれた田舎で世間を何も知らないまま育って上京してすぐ、対人スキルが全くなかった十代の私は22:00~7:00まで一人で大型飲食店舗を掃除するバイトを始めました。入れ替わりになる夜と朝の若い男女スタッフ達はいつも賑やかで「大変な仕事だよねぇ」と同情的に接してきました。人間と係わることが最大のストレスだった当時の私には、肉体的負荷は大きくても独りきりならば気楽で全く苦痛ではありませんでした。

毎日出る100キロ単位の大量のゴミを早朝に業者が回収しに来るため、丸一日裏に溜めてあったゴミをその収集時刻までに店先に出す作業がありました。某JR駅前の店舗だったので、まだ薄暗い空の下で駅に出入りする人がポツポツいるだけです。ぼーっと待っているのも辛いので、店舗前清掃のついでによく車の送迎レーンのゴミ拾いをしていました。するとどう見えていたのか、何度か見かける歩行者や客待ちのタクシー運転手などが「早朝からご苦労様です」「ありがとうございます」「なかなかできない立派ことで…」などと声を掛けてくるようになりました。

「店内での作業に比べたら、ほんの軽作業で暇を潰しているだけなのに、どうしてそんな大袈裟な反応を示すのだろう…」

そこから数年いろんな仕事でいろんな人と接して、アホだった私にもさすがにわかったのです。今している事が金銭報酬になるのかならないのか、割に合うのか合わないのかを考えてするのが、この世の一般的な仕事というものなのだと!(笑)

つまり逆に言いますと、人間の行為でもその事がお金儲けになっていなければ表に出てこない、というわけです。枠としては会社員・公務員・自由業・学生・主婦・無職などと大まかに分けられても、見えていないところで誰がどのような役割を果たすことで世の中が成り立っているのかなんて、地上の人間にわかるはずがないのです。

経済社会に毒された人間の相手の見方とは「自分にとって利用価値があるか」「自分の荷物にならないか」ぐらいです。そして、その読みも的を外れているのが凡人というものだと思うのです。

産み育てる子供を「どれだけ稼いでくれるようになるのか」との見方をしている母親は、いても少ないはずです。

出産や育児は損得でなされることではないからこそ存在する言葉「偉大なる母」
血縁関係などなくても、その役割を果たす人は常にいる、私はそう考えています。