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2017年2月
新たな人生モデル
2017年02月19日

新たな人生モデル

とても重要な事であると言わんばかりに「これは科学的だ」とか「それは非科学的だ!」という言葉を多用する方がいます。

まだまだ発展途上で未熟な今の科学を絶対視する人も、科学という名の教義に囚われてしまった宗教信者と同様である、というのが私の見解です。科学的、論理的であるように演出し、宗教とは無縁であると思わせ、その実、宗教的洗脳を実践している組織のいかに多いことか。その目的はもちろん支配と搾取です。

では皆さん、ここで問題です。支配する側にとって鍵となるのは、いったい何だと思いますか?
答えを先に言います。それは、支配したい対象に「自分には力がない」と思い込ませることです。

サーカスの猛獣たちはどうして逃げ出さないのか?について、テレビ番組等で観て知っている方も多いことでしょう。残念ながら人間にも動物の一側面がある以上、同じ要領で縛り続けることが可能なのですね。ストレスまみれで病院暮らしになっても、その洗脳から解かれることがないまま最期を迎える人が多いのです。

「自由意志で生きるなんてこと、できるわけがない!」との長年の思考回路が金属の檻のように実体化していまい、いとも簡単に出られるはずだった柵の内側から一歩も出ようとしない人がいったいどれだけいることでしょう。そのような人は、本当に一切の束縛もノルマもない状況となって「じゃ、私はどうすればいいの?」となることをむしろ怖れています。また、何かを発案して行動に移すような事を苦手とするため、空白の時間を作らぬよう無意識的にスケジュールを埋め続けている人もよく見かけます。ゆったり過ごすことはなく、常に「忙しい、忙しい!」と言って、一度停まればエンストしてしまうマシンか何かのように動き続けている人です。搾取側にしてみれば、ここまで調教されている人間はオイシイですよね。する事がなくて困るよりは、どんなに愚かしい事であろうと時間が潰れればそれでよい…そんな人々が大勢存在するのです(笑)。

人によって様々な価値観があるのは確かですが、同時代の同地域における価値観となれば大まかに絞られてくるでしょう。「金銭獲得こそが人生最大の意義だ」と考える人にとっては、「人としての在り様」などに想いを馳せている人こそ「1銭にもならない事に妄想を抱いている愚か者」と映ることでしょうし、その反対で人生に純粋さを求めている人からすれば「世の中、カネのためだけに妥協する人生がこんなにありふれているなんて…」と悲観的にもなるでしょう。ここではその善悪や優劣を問題にしたいわけではありません。ただ、20世紀は前者タイプが標準で圧倒的に優勢、21世紀に入って後者タイプが急増していて、前者タイプにはやりにくい社会となってきているのではないでしょうか。

これは人間の本質が変わったわけでなく、いつの時代でも社会全体がそのような価値観に染められる結果でしかない、と私は考えます。ざっくり言ってしまうと、前世紀までは「多くの物質を所有できる=豊かな人生」という宗教が流行っていたというわけです。それを科学的な事だと思っていたのです。

ところが、そんな親や大人の生き様を見て育った世代の目には、それが豊かだとは映らなかったのでしょう。「豊かさとは名誉や金銭で賄えるものではない」…若い人になるほど、そんな価値観を有しているように私には感じられます。しかし「では、どのように生きて行けばよいのか?」というモデルが消されることはあっても示されることはなく、あっても極端に少ないため、自分を社会に合わせて歪めることができなければ成人しても路頭に迷う他はない…という実情があります。
それを駄目だの無気力だの病気だのと決め付けている、社会システム側に問題があると認めるわけにはいかない!?そりゃそうですよね。これまで何十年もよしとしてきた営みを「これではマズイから大きく変えよう!」と動き出す大人が普通にいたのならば、現在こうはなっていないでしょうから(笑)。

とても大切な文明転換期に入っていると思うのです。ここまで読んでくださったあなたもきっと、その勇気ある仲間なのでしょう。最大の力は、戦争でもテロでも抗議デモや論争でもなく、他の誰かが書いたり言ったりすることでもありません。各人が自らの叡智に触れることなのです。そこから得た情報を基に各人が実践して行くことが最大の力なのです。 

高次元を体験する!
2017年02月13日

高次元を体験する!

一部の人が「これこそが生命のすべてだ」と思い込んでいる【肉体】の存在を疑う人は少ないでしょう。実際に私も今、まだ後遺症で思い通りに操ることのできないしびれる指先を使ってキーボード入力をしています。皆さんも、顔をモニター画面に向けるよう姿勢を調節し肉眼を動かして読んでいることでしょう。

では肉体でない、つまり物質ではない生命の存在を疑う人々が、先進国と呼ばれる所を中心にどうしてこんなに大勢いるのでしょう?

その理由は簡単です。自分自身を含む人間の本質が【非物質生命】であることを体験から認識するのには程遠い、緊張を強いられ続けてリラックスできない暮らしをしているからです。ですから生活インフラが整っていないような大自然の中に浸れば、誰もが精妙な非物質のエネルギーを感じ取りやすくなるのでしょう。そして、それらを「神・精霊・妖精・天使・菩薩・異星人・寛容・愛・癒し・平和・感謝・謙虚・歓喜・悟り」などと呼んでいるのです。

反対に、現代社会の中に埋没して生活していれば誰もが囚われてしまいがちな、物質に近い粗雑な波動の非物質エネルギーだってあります。それらは「不信・疑い・怒り・争奪・支配・憎悪・復讐・蔑視・恨み・嫉妬・無関心・無気力」などと呼ばれるものです。皮肉にも物質に波動が近いだけに、それらの想念が物質世界に形をとって顕現する場合がとても多くて速い… 繊細な人にはそれだけ闇が深く見えるため、いつだって終末論が絶えないのが物質世界文明なのです。

もうおわかりですね。人間社会とは肉体や物質だけで構成されているものだと思い込んで生活していても、お金や力だけではどうすることもできない非物質エネルギーに誰もが大きく影響されて生きているのです。すなわち肉体を有していても、皆さんは確実に非物質生命体なのです!

どんな波動を選ぶのかは本人の自由です。何らかを求め続けて常に疲れている人がいる反面、あてのない旅に出て人生が一変した!なんて話もよく聞くでしょう。しかし旅に興味はあれど、諸々の事情で叶わないという人も多いのでは?

そこで、「そんな大仰なことを企てなくても、都会の真ん中でだって精妙な高次元の波動を気軽に体験できるのですよ~」と開催しているシリーズが【高次元波動体験会】なのです。ちょっとした日帰りのお出かけでも、思い切った長旅を決行した場合と同じような人生の転機になるのかもしれません! 実際、これまでにそのような体験をした参加者もいらっしゃいました。

大きな『気づき』とは、費やす時間やお金に比例するとも限らないのです。しかし、自分で体験しないでいくら文字で読んだり話を聴いても、残念ながら他人事としか感じられないのですよね。

見えている通りには実在しない?
2017年02月07日

見えている通りには実在しない?

何度か触れましたが、ここ半年近く私が抱えている身体の後遺症あれこれの中で最も辛いのが肉眼視界の錯乱です。

左右の眼球が捉える映像を脳がリンクして処理できないため、常に対象が複数重なっているように視えるのです。真っ暗闇に灯りが一点だけという状況でしたら二点に見えるだけですが、日常では背景を必ず伴った状態で右の捉える映像に左の映像が重なり、当然左右逆の現象も同時に起きていて対象物も自分も移動するため、常時まるで万華鏡を覗いているような視界なのです。
意識が戻って症状を自覚した初期には、車椅子での移動から立ったり歩いたりする練習の著しい障害になりますし、両目を開けているだけで気持ちが悪いので常に眼帯で片目を塞いでいました。この先もずっと続く症状だとすると、かなり陰鬱になりかねないそんな状況下でも私はそれほど深刻にならず、毎日が不思議アトラクションで冒険しているように楽しんでいるところもあります。「転倒せずにできた!」「ぶつからずに通り抜けられた!」「どれが本物か見当がつくようになった!」といったささやかな楽しみ方ではありますが(笑)眼前の数十センチならなんとか普通に見ることができるようになっただけでも大きな進展です。

そんな気軽な感覚で済ませられている大きな理由に、私は幼少期から元々視覚に関する独自の考え方を持っていたことがあげられます。それは、「肉眼で視えているからといってそれが実在するとは限らない」…反対の言い方をしますと、「視えない」からといって「実在しない」ということにはならない、という持論です。

私はほぼ毎夜夢を見て、結構それらを憶えている子供でした。暗い部屋で肉眼の瞼を閉じていても充分にカラフルで現実的な映像をキャッチできているのだから、肉眼は補助的なものだとしか思えなかったのです。これは聴覚や触覚に当てはめて考えても同様に言えることです。
もうひとつは、魚をはじめとして甲殻類・昆虫・両生類・爬虫類・小型哺乳類など様々な生物を捕獲しては観察するのが大好きな少年であった私にも憶測がついたこと。それは、あらゆる生物が、同じ対象物を全く別のものとして捉えているであろうということです。それは、外見がほぼ同じ人間同士においても該当する事だと思うのです。自分の視界を他人に説明することも、誰かの視界を自分が真に理解することも、できているようで実はできていない。「見る」という行為をしている「自分」というものの実態はいったい何なのだろう…?子供の頃から常にそう感じていたのです。
錯乱状態だと感じている今の視界が、突然の脳出血からではなく生まれつきの視界だったとしたら、それが私にとっての視覚から自然と認識される世界の在り様なわけで、「視界が変だ!」などとは思わないはずです。

瞳を閉じても映像や画像が浮かぶ事実を、現代の医学や科学では脳機能の産物だとしたがるでしょう。私はその事をとやかく言いたいわけではありません。「科学的」という言葉を使うのであれば、人や宇宙に関する大切な真理は現代社会で「非科学的」とされていることの中に埋没してしまっているのです。人や時期によって必ず異なっていて当たり前の内容を、第三者が検証するなんてこと自体、ナンセンスの極みですよね(笑)。