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「期待」とは
2018年06月19日

「期待」とは

期待はずれでがっかりした経験は誰にでもあるでしょう。私も若い頃はよくありました。

 

しかしある時期に気付いたのです。今までの自分の期待とは「自分に有利に物事が展開するのを予想している」だけだと。「自分がラクして通過したい・自分には追い風が吹く」などと、自分に都合の良い憶測をしてるから、しょっちゅう期待が裏切られた気持ちになるのです。だから私は特に何も期待することがない数十年を過ごしています。

 

「誰にも何にも期待していない」なんて語ると、冷淡で寂しい人だと思われがちです。しかし、全くそんなことはありません。

むしろ何があっても誰かや何かのせいにすることがなくなって、些細なことでも喜べたり凄く得した気分になったりすることが頻繁となったのです。それに、期待がなくても常に予感はあります。

 

自然現象をはじめ、自分以外の何かや誰かをコントロールすることは原則できないし、してはならないと感じます。他人を恐怖でもってコントロールすることができたとしても、それは一時的なもので、かえって歪を溜めてしまい、それがいつかは爆発するのです。

 

企業でも国家でも自治体でも、人が集まる組織では属している者を制御する必要があるため、上述の手法を使わざるをえません。

「身が危険に晒される」「もらえるはずの報酬をもらえなくなる」「恥をかかされる」「罰金を払わされる」等々の事態を避けるために不本意でも指示に従って、見えないところで愚痴って発散する…良く見られる光景です(笑)。

それを上手にできなければ内臓疾患や精神異常を招いたりもするわけですから、それもそれで必要な行為でしょう。

 

人は一人きりでは生きて行けません。それは事実ですが、属した組織の都合で一緒に居合わせているのと、自分たちの自己都合で関係を築いたり解消したりする人間関係とでは、同じようでも実質まるで違うわけです。

「そこをどう捉えるのか」の個人差が著しく激しい時代に入ったと感じます。

 

「若い新入社員が飲み会や社員旅行などを断る」等の事例も、良し悪しではなくてその辺の問題だと考えます。お上が望むことならば、誰もが自分が死ぬことを百も承知で戦場へと敵国の人殺しに出向いていた時代があります。今ならそうはならないでしょう。時代錯誤の人が一部いるというだけのことです。

 

そこでも「自国が戦勝する」という期待や願望が、国民の皆にあったのだと思います。私はスポーツが好きな少年でしたが野球でもサッカーでも、自分がプレイヤーでもないのに勝敗をめぐって大騒ぎする観戦者にはいつもゾッとします。暴動もたまに起きますよね。「ファン」と呼ぶらしいですが、期待や応援の気持ちが敵を害することに繋がっていることが不思議です。子供の頃から私は「誰かに決められた仕組みを運用しているだけでこんな風になってしまうんだ」と疑問でした。と同時に、戦争という大量殺戮ゲームを好んで実践する大人たちが多いのもわかる気がしました。

 

何を言いたいのか… 人間はいつの間にか簡単に洗脳される生物なのです。(洗脳のことを「教育・布教」という言葉を使うのが一般的です)

 

誰かの意図に沿って行動するのはマシンだけで充分です。知的生命体人間としてはイジョウです。

縛りの多い環境下では難しいかとは思いますが、皆がそうしていたとしても、自分が「おかしい」と感じるのならば自分までおかしなことを実践しなくても良いのです。それが本来の人間だとセイジョウ石井は考えます。