お知らせ

2017年07月13日

経験の共有

人間は、それが何であっても対比するものが無ければ認識そのものすらできません。夜があるから昼を認識し、寒さがあるから暖かさを認識できるように、改めて考えてみると実に見事なほど対極の何らかを知っているから、そうでない状態の意味を感じることができるのです。厳密には「知る」のではなくて「経験」することではじめて得られる感謝や喜びが、人生の醍醐味です。

これは誰もが否が応でも感じることですよね。サイボーグではない証として(笑)空腹感や眠気や体調不良、寒さ暑さを一度も感じたことのない人間はいないわけです。

逆の見方をしますと、世界中ほとんどの時代で日常であった「身の周りでよく知っている誰かが死を迎える」という事態が、珍しい事のように感じるほど平和で安全な世の中が続けば、人生への不平不満は増えても生きることの喜びやありがたさをを感じ難いわけです。その善し悪しは別にして「このネタで、これだけ騒がれてしまう世の中なのか…」と、表面的には平和となっている今の世の中をしみじみ実感している人も多いはず。

だからといって私は、豊かさを味わうために断食や不便な暮らしをしてみることをすすめるわけでも、健康を実感できるように身体を酷使して、一度は身を危険に晒すのが良いとか考えているわけではありません(笑)。 

そこにはこだわらない生き方について少し書いてみます。

今も肉体で生きている世代がこの世界に生まれてからの社会環境からすると、人生を左右する二大要素とは(もちろん例外はありますが)おおよそお金性(恋愛・結婚)かと思われます。 

冒頭に書いた話の流れからすれば「物質金銭的に貧しい環境に生まれ育ったからには経済的に報われることが人生最大の目標であり、そのための犠牲(不本意さ・非情さ・冷酷さ)はやむを得ない」というような考えのまま晩年を迎える。その延長線上にある性への考え方なら「表面上はアブノーマルな趣味だと思われることを慎んで、相手選びには家柄などの経済利点が何よりも優先される」といったところでしょうか。 

あくまでもざっくりですが、逆パターンですと「経済的に不自由のない家に生まれて物質的には恵まれて育つも、社会的優位に立つ人間の強欲で卑怯な生き方を間近で見て知ってウンザリし、清貧に憧れる」みたいなことでしょうか。それが性的には「家柄や生育環境が違いすぎたり価値観が世間一般と大きく異なる相手と、周りの意見を無視して一緒になる」パターンですね(笑)。

強いて言うのなら、若い世代は圧倒的に後者が多いというのが現状です。レストランでの外食や海外旅行を自慢に思えたり、大きな家や豪華な乗り物に憧れる若者は今や少数派なのです。そして、上述のパターンには当てはまらないケースも増えているのです。 

それは例えば、経済的に貧しい環境に生れたからといって「大人になったら金持ちになって見返してやろう」とは考えないケースです。これは「金持ちを目指して努力することで人生は報われる」との洗脳が解かれたということでもあります。独立して社会人となったにしても、昨今では金銭や物質に依存しないで豊かに生きる方法を模索しているのが当たり前の風潮です。

これら一見無欲な人々は、両極端を経験して初めて理解できるはずだと思われていた個人的学びの経験値を、貧乏も裕福も大して経験していなくても何らかの形で早い時期から得ているということなのです。散々苦労して両方のベクトルを経験してきた人ほど「まだ若くて何も解ってないガキが…」などと思ってしまうのでしょうが、もしかするとこれは集合無意識の作用によるものなのかもしれません。 

その理屈はどうであれ、先人の経験学習が共有されてくるのです。工業製品のスペックで言うと「今ではどの機種でも当然である機能が、かつては一部最先端の最高峰機種だけに付いていた特別機能だった」みたいな話です(笑)。人間と機械とは違うのだから、そんなバカな…と考えたくもなりますが、戦争を知らない世代でも「あらゆる犠牲を払ってまで争いに加担・協力して勝敗にこだわることのばからしさ」を知っています。それは学校の授業でいうところの「歴史から学ぶ」といった知識的な事とは別物であると私は感じています。むしろ学校は、勝敗や競争の価値観を植えつけるための場所なのですから。

人間の非物質領域に鍵があるのです。この世に物質として残っている記録だけではなく、先人の経験が自分の人生にも非物質的に蓄積されているということです。非物質的にはいつでもカンニングし放題なわけです!笑