お知らせ

2018年05月14日

平和の創出

皆さんは自分が位置している場所というものを常に意識して生活していることと思います。地図で表示するなり、今時なら正確な座標を数値で表示することだって可能ですよね。ですから日常の活動範囲を越えた出張や旅行で大きく移動するとなると、大変だったり楽しみだったり特別な感情も湧いてくるものです。

 

実は場所(位置)も、時間と同じで単なる錯覚だとしたらどうでしょう?

 

私は日常的な習慣である瞑想中はもちろんのこと、俗に言う臨死体験みたいなもので自分があらゆる時代や場所に存在していたという経験を何度かしたことがあります。この身体は病院の集中治療室で横たわっていただけだと思いますが…

 

元々若い頃から私は人間が非物質存在だと考えていたので、時間と同じで空間というものの錯覚に魅力を感じたことがあまりありません。「自分がどこにいようと、本来はどこにでも行ける」とでも申しましょうか、仕事の出張以外では旅行というものをしたことがほぼありません。肉体が物質的などこに位置しているのかにそれほど重要な意味があるとは思えないのです。

 

睡眠中に異次元でよく大旅行を経験しているのも関係しているでしょう。例えば海底深くから雲の上までつながっているビル一本がまるごと大都市のような空間で自分が忙しく活動している事を認識していますので、それに比べるとこの世界のどこへ出かけても「ショボいな~」くらいの感想しか持てないのです。

 

この世界とは別の異次元世界でも確かに自分の生活が継続しているのです。つまり、次元を超えた対比みたいなことをしてしまう癖があり、今この星で特定の名前で呼ばれている自分の世界だけに意識をフォーカスできないのです。

 

何を取っても「沢山ある自分の中の僅か一部分」的な感覚が常に付いてまわってくるのです。それは評価をうけること、病気になること、結婚して子供ができること、カネを稼ぐこと、肉体死を迎えること…「自分のしている何もかもが他人事のようだ」まさにそんな感覚です。

 

はじめから「守るものが何もない人生」とでも言いましょうか。だから脅したり騙したり殺したりしてまで何かを維持したがっている誰かの状況を見かけると「この人は凄い錯覚の深さだなぁ」と感心してしまいます。自分の肉体生命やカネや名誉をはじめ、そんなにまでして手に入れたい、手放したくない何かがあるなんてこと自体が不思議なのです。

 

ただ私にあるのは「そんな局所的な部分に執着する必要なんて人生には何もないのですよ~」とお知らせしたい気分です。それは「もっと広くて多角的な視点を養いましょう」という意味です。何をするにしたって「特にどうってことはない」という気楽な感覚で取り組めば、何でも楽しめるし結果も良好となります。

 

戦争をはじめイザコザは何でも全て、はっきり言って誰かのどうでもよい事への執着心から生じていると私は感じています。社会情勢とは関係なく、いつでもどこでも自分が平和を創造するコツ、それを一緒に体験してみませんか? 

次回の瞑想会は19日(土)の12時からです。楽しみにお待ちしています。