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2018年05月25日

「キツイ・メンドウ」を避けない人生

「あれはキツイからやめた」「それはメンドウでやる気も起きない」そんな事を考えたり言ったりしていませんか?

 

そのような考えに支配されて生活している人が望むことは「ラク」な事でしょうか。

「ラク」な事とは、表現を変えれば「ショボイ」「タイクツ」な事ですよね。私は昔からそう感じてしまうタイプです。キツかったりメンドウだったりするからこそ達成感や満足感や喜びも得られる…少なくとも私はそう思うのですが…

 

体力のみの勝負となると若い一頃だけの話となってしまいますが、知性や感性、身体能力でもパワーだけでなくてコツを掴むための鍛錬でしたら年齢や性別とは関係なく取り組めるものが世の中には沢山あります。飽きたりめげたりして放り出すことなく長年継続できれば、それは「特技・取り柄」になるのが普通なのです。

 

誰だってそうできるのに「長年このような事に打ち込んでいます」と言うものが何もない人生を選ぶ理由は何しょうか。実際にそのような人が増えているような気がするからです。今回はそれがどうしてなのかについての考察です。

 

私の見解では、子供の頃から皆が損得や利害を計算しすぎているからだと思います。「それができる事によって将来はカネや名誉になるのか?」という基準ですと「契約金が話題になるスポーツ選手をはじめ限られたジャンル、しかも一流になれないのならば意味がない」とやる前から見切りをつけてしまうのです。

 

昔は皆がある種の職人であることが前提の社会だったはずが「それで自分が特別な扱いを受けられるわけではないから」との理由で、若い人でも色んな事に興味を持たなくなっているのだと思うのです。何も習得する必要を感じていない人が多いということです。有ったとしても金銭報酬で優遇を受ける知識や技術や資格だったりするのです。

 

自分が子供の頃は、大人からしてみたら「またそんなアホなことに夢中になって、まったく!」みたいな子供が周りにも結構いました。興味が持続して大人になってそれが職業になった人は確かに少ないでしょう。でも全く無関係に見える職業に就いていたとしても、養われた感性や工夫力や忍耐力は意外と仕事にも活かされているものだと思います。

 

これも人生観・死生観の問題だと私は思うのです。「お金や権力を持つ人のみが自分の人生を評価する」という考えに染まっているだけなのですね。ところが肉体死間際になれば誰にでもわかることですが、自分の人生の納得度や充実度とは自分自身が感じるものであって、他人の誰かが決める事ではありません。権力者や金持ちの言いなりに生き、そこそこの富や名誉を得たところで「素晴らしい自分の人生だった」と感じることはないでしょう。

 

何度もお伝えしていますが、人が肉体を持って生まれ出る理由は経験から学びを得ることです。そこには金銭苦や病死や餓死など、肉体を持つが故の性質全てが含まれているのです。「ずっとお金に恵まれて健康長寿なら人生の学びが大きい」では決してないのです。

 

セイジョウ石井は貧乏や飢えや病気を勧めてるわけではありません。ラクチンばかりを求める人生はイジョウだと言っているのです。

 

その時はキツかったりメンドウだったりしても嫌ったり避けたりしないで「これが今の自分に与えられた経験と学びの機会なのだ」と素直に受け入れる姿勢が次の展開を生むことにつながるのです。

 

特定の人物との思わぬご縁や大きなチャンスは事前に知ることが基本できないのです。ただ、それらの多くが億劫な物事の奥に潜んでいるのです。ですから「キツイ・メンドウ」を避けて通る習慣とは、出逢いやチャンスを自ら遠ざける行為なのです。

 

直接的には何の益もないように思える事でも、自分が惹かれる事を継続していれば人生で大きな何かを得るものなのです。それは金銭や名誉などわかりやすいものではないのかもしれません、よって「特に何も得られていない」と感じるのかもしれません。

 

経験と学びを得ることが肉体人生最大の魅力です。私も40代で倒れて歩くことすら難しい身体になるとは予期していませんでした。過酷なリハビリの結果、肉眼で景色がそこそこ見えるようになって、一人で糞尿漏らさずに数時間散歩できるようになっただけでこんなに大きな達成感を得られるとは我ながら驚きです。

 

だからって誰かが褒めてくれたりご褒美をもらえるなんて微塵も期待していません。あくまでも自分自身の問題です。私は悔いなく生きているだけです。皆さんも小さな子供を見習って楽しんで悔いなく自分を生きましょう。