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孫はなぜ可愛い?
2018年02月24日

孫はなぜ可愛い?

ほとんどの方が息子や娘よりも孫の方が可愛いいと感じるようですね。財布の紐も緩みやすいみたいですし(笑)「目に入れても痛くない」なんて言われるほどです。

これまで個人的に聞いてきたその理由としては「その子がどんな人生を歩もうと、その頃には自分が生きていないので責任を感じない分、気軽にペットのような可愛いがり方ができる」みたいなものが多かったように思います。

それよりも単純に言うと「老いてくるから若さの価値が高い」という要因が私は圧倒的だと思います。つまり、自分の余命を意識しだすと自分を経由して誕生してくる命がとても嬉しく感じられるのです。ほぼ誰もが、親になる時期にはまだ暮らしを立てるのに手いっぱいで経済的不安や心配が先立ってしまい、手放しで喜んではいられないのが普通でしょう。

他ならぬ私こそ、孫がいてもおかしくない歳となった今でさえもこの世界での生き方をずっと模索しているようなものですから(笑)。

一年半前、救急搬送されたその日に私は集中治療室であらゆる肉体機能を順次失って、一般常識的には「残すは心肺停止のみ」状態となったのと同時に息子は誕生しました。意識が遠ざかりながらも最後の力を振り絞って瞳を上に向けると、大勢の医師が成す術なく脳幹出血中の私の周りを取り囲んでいるのが見えました。「よりによって誕生日が年月日でバッチリ父の命日なんて少し酷だったなぁ。息子よ、ごめん…」そんな風に思ったのをはっきり覚えています。

私が意識のない植物状態中でも妻は生まれた息子を抱いて見舞いに来てくれていたみたいですが「無事に息子が生まれて自分がまだこの世界にも存在している」ということを私が自覚できたのは、それから1~2週後です。立てない私のベッドに同じく起き上がれない息子を横たわらせ、何とも言葉にならない感慨に耽りました。オムツに糞尿垂れ流し、そこも一緒です!笑

ただでさえ自分の年齢からして孫でもおかしくない上、常識的に自分もそう大して生きられない、仮に長く生きても辛くて困難な余生であることは誰にも予想がつくわけですから、もう曾孫くらいの感覚です。しかしコップすらまともに持てない自分の身体で抱きかかえたりできるはずもありません。ベッド上でも自分が崩れて押し潰してしまわぬよう横から、ほとんど視えなくなった目で眺めることが精いっぱいでした。

あれから1年半、今では私と同じく歩けるようになった息子と妻と3人で公園に出かけ、噴水を眺めたりしているのです。これを実現するため、私は痛みに耐えて自己流リハビリを自発的に組んでここまで実践してきたのです。

息子は、肉体で生きる大きな動機付けを私に与えるために絶妙なタイミングでこの世界にやってきてくれました。そして私が肉体で生きる真の意義は、もちろん子供の相手をすることだけではありません。同じく苦しみながらも肉体で生きている方々が希望を抱くきっかけを自分も提供できると考えるためです。

仮に今がどんなに辛くても悲観しないでください。
常識的にそれが無理なら、非常識になればよいだけです。
いろんな人それぞれにいろんな常識がある…これは事実です。

あたかも自分以外の誰もがそうであるかのように錯覚している「常識」とやらに惑わされないでください。そんなものは存在しません。

この世でどんなに「権威がある・信用がある」とされる人が言っていることでも、それが当てはまらない多くの人にしてみたら、それは非常識です。

強いて言うのなら、生きている人が希望を持って生きる…それが常識です。常に苦痛や不安を感じているのなら、それは非常識な生き方をしているからです。「お金を稼ぐためには仕方がない」という理由で非常識な何かを続けているから、どんなに稼いでも不安で苦痛なのではないでしょうか。

何が常識なのかは、皆さんすでに深い所で知っているのです。
この世の仕組みは、その人の常識によって異なります。
解釈が異なるのではなくて、実態が人によって異なっているのです。

アナタの選んでいる世の中の仕組みはどんな仕組みですか?