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人は動物とどう違うのか
2018年03月10日

人は動物とどう違うのか

「死ね!」という言葉。近頃は気軽に使われるようですね。

自分にとって最悪だと思う言葉を相手に浴びせることが目的なのでしょうから、その言葉を発する人こそ「さもなければ死ぬ」という状況下では「何でもする、頼むから命だけは助けてくれ~」となるはずです。

それが、戦争では「相手に殺される前に殺さなければ」という思考に自然とつながって参画者が集まり大量殺戮ゲームが成立するわけです。日本ではここ70年ほど経済戦争にとってかわってはいるものの、表向き殺傷能力のある武器を直接使わないだけで、生きて行くために仕方なく戦っているという意味では同じでしょう。

それらがアホらしくなって戦線離脱する人が今は急増しています。

他の生物と同じように、常に肉体生命の危機に晒されながらかろうじて生き残った生体が、肉体死を迎える前にせめて種を残して後を託す…人間もそんな時代が多いわけです。

ところが皆が物質的な豊かさを求め、叶え、種として過剰繁殖するにつれ肉体生命維持(種の保存)を疎かにするため、大量殺戮ゲームを始めたがる暴君が出てくるのです。

それが個人レベルではどう出るのかいうと「肉体死を避けるためなら何でもする」だったのが「あれもこれもしたくない」「子供がほしくない・家庭を築きたくない」「次世代のための環境保全なんて思いつきもしない」「むしろ肉体死を望む」人が増えるのです。それがこの星の現状であり、これは「熟している証拠」なのか「ほとんど腐っていてどうしようもない」のか、見解が分かれるところです。

私が何を言いたいのか…

「ここ数千年の地球にかぎって言うと、ほとんどの人間は知的生命体ではなくてアニマルとしての経験を積んで来た」ということです。言葉は悪いですが、労働力が家畜や奴隷から機械へ、更に人工知能へと大きくシフトしている今、資本主義が続く限り「ちょっとくらい器用で賢い奴隷でももういらない」となるわけです。

自分をサルやチンパンジーと同列の「動物」として認識しているかぎり、恐怖や不安は増すばかりです。ところがサルとほぼ同じ形をした人間ですが「その本質は非物質の知性」だと気付いたのならどうでしょう。

セイジョウ石井はそんな説明を試みています。