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セイジョウ石井の想い
2018年03月17日

セイジョウ石井の想い

人間とは、経験から学ぶために肉体を持って生きています。そこが、プログラムされていなければ作動しないマシンとの大きな違いです。人間なら本来は自分で自分をプログラムできる、という意味です。

しかし実態は何度もお伝えしているように、使い勝手の良い労働力に育て上げるべく子供のうちから集団行動を強いて、親や教職員などから偏った情報を強制的にプログラミングされるため、入力ミスや入力漏れがないかぎりほぼマシンとして物質肉体維持に努めて働くのが普通の人々です。

ところが近年、滅多になかったはずのプログラム入力漏れが頻発しているわけです。小学校でも登校拒否、成人してからでも就職拒否、人生そのものの拒否(うつや自殺、意図のないひきこもり…等々)。

就職難を口実にする人もいますが人手が必要な業種はどこも慢性的人材不足、日本語が通じない人が働いている業種は増える一方です。

「金銭奴隷を避けた先には金銭苦が待っていただけ」という現実に直面して打ちのめされ、途方に暮れている方もいるでしょう。

頭部があって胴体から手足が伸びて二足歩行しているという、皆が一見似たような姿をした地球人類ですが、知的生命体と呼ぶに相応しい存在はそんなにいない…実質は動物なのか社蓄なのか国蓄なのかマシンなのかはさておき、本来の人間らしい生き方をしている人が少なすぎるイジョウな社会に強く警鐘を鳴らしているセイジョウ石井です。

でもマクロで見ればこれは必然の状況です。人間らしい生き方を諦めないで求める人が急増しているのに、その受け皿となるものが特に用意されているわけではなく、各自が模索しなければならないのですから!

ここで私が言っている「人間らしい」とは、唯物主義社会で言われる衣食住に関する物質のことではありません。人間が非物質存在であることをちゃんと知って、非物質(心)の豊かさを優先して生きるということです。

それはつまるところ「肉体死を無闇に恐れない」ということが原点なのです。どんなに恐れて心配しようがしまいが、物質と直線時間軸だけの狭い世界観を持つ限り「全ての終わり」だと勘違いしている肉体死は必ず訪れるのですから(笑)

セイジョウな人間社会を実現するためには「人は非物質の存在である」というセイジョウな人間観、死生観を持つことが必須です。

ですから、セイジョウ石井は馬鹿にされても無視されてもそれらを語り続けます。